基調講演1 「スポーツと平和」
松浪 健四郎氏 
 ご紹介を賜りました松浪健四郎でございます。今日はこうして盛大に第9回セミナーが開催されますことを
心からお祝い申し上げたいと思います。
 冒頭、海部会長からご挨拶がありました。子供達にルールを守るように教えるために、ティーボールは効果的
だ。なんか、胸にグサッと来る面がありましたけれども、今日はそういった話は横に置きまして、「スポーツと
平和」というテーマでお話させていただきたい、そう思っております。
 私自身、20年間大学の教壇に立った者としてスポーツの本質について、またスポーツがどうあるべきか、この
ような事を研究してきたものであります。けれども、長い間、教壇に立っておりませんから、どのような形でお話
すれば、ご理解いただけるのか、私自身十分思い当たらない訳ですけれども、思いつくまま「スポーツと平和」
というテーマでお話させていただきたい、と思っております。
 このテーマをいただいた時に一番最初に脳裏をかすめたのは、なんといいましても古代オリンピックであります。
これは皆さんご存知のように、紀元前776年に始まるわけでありますけれども、その後300年近く続きました。
これは、前世の神を中心にしたオリンポスの山々に住むといわれる神々を祭るイベントでした。どんなに激しい
戦争をしていようとも、それを止めてみんなが集まってスポーツをする、これが大変な昔にやられたということ、
これをまず私達がたいへんまず不思議に思わなければならないと思います。政治が成熟していない時代に、なぜ
そのようなイベントを行うことができたのだろうか、こう思うわけであります。
 ご存知のように、当時、古代のギリシャでは、毎年大きなスポーツイベントがありました。オリンピックの他に、
ネミア祭であるとか、シトピア祭であるとか、いろんなイベントがあったわけではありますけれど、このオリンピア
だけが、一番大きなものとして全ての都市国家が集まるというイベントになりました。これは単に、スポーツの
イベントであるから、みんなが集ったのか、聖なる神々を称えるために人々が集まったのか、だからこんなに長く
続いたのか、こう思われますけど、極めて政治的でありました。と申しますのは、みんなが集まるというのは、
色々な考え、つまり思想、哲学、同時に文物を持って集まってまいります。私達がどこかへ行く時に、必ず手土産
を持っていく。その手土産は概ね特産品や産物であったりしますが、これは珍しいから貴重だからといって土産を
持っていく。古代オリンピックもまさにその通りでありました。大きなテント村がいくつもできて、そこに集まった
都市国家のいろんな人達が、いろんなものを持ってきた。そしてそこで「今、俺の国ではこんな問題が起きて困っ
ている」という人がいれば、「いや、うちでもそういう問題が起こったけれども、こういう形で解決させた」というふう
な知識の交換、手法等が極めて有用でありました。文字通り、今日的に言うのであれば、サミットであったわけで
す。そして色々な種を持って、あるいは農産物を持っていく。オリンピックに行けばみんなが集まるから色々な
珍しいものも手に入る。これが結局神聖な儀式であると同時に、古代ギリシャ文化を向上させる上で大きな役割
を演じてきたが故に続いてきたと言っても過言ではありません。そしてそれは、極めて神聖なものでありました。
スポーツの強弱、これは神聖なものである。これは古代ギリシャの人達の考え方であった。それ故に多くの人々
に支持され、長い間続いてきたんだ、と、こう私は思います。スポーツというのは本当に神聖だったのであろうか、
これは古代のエジプトを見ましても、あるいはチグリス・ユーフラテス流域のメソポタミアのスポーツ文化の在り方
これらを見ましてもやはり神聖であります。
 そしてその例は、わが国でも見ることができます。わが国におきまして一番古いと思われるのは、やはり相撲で
あります。この相撲はなぜ行われたのかといえば、神の前で行う占い、学問的には神占、このように呼んでおり
ますが、占いから始まった政治が安定していない、あるいは成熟していないところにあっては、神々の存在が
極めて大きかった。それはわが国にとどまらず、世界中に同じであった。このように考えて差し支えないと私は
考えております。相撲をとる、概ね勝ち組、負け組、これが決まっておりました。相撲をとった、必ず勝ち組の人間
が勝ってくれる。そうすることによって今年は勝ち組が勝った。これは豊作組なんだ。日照りも悪い、水もない、
だけどみんなが一生懸命耕せば必ず実るんだ。この勝敗は人々に勇気を与えた。なるほど水がなくなったって
日照りが悪くたって一生懸命やれば、やらないよりは収穫を高めることができたでありましょう。ところが凶作組、
つまり負け組が勝ったとしたならば、今年は水もあるけれども、気候もいいけれども、いくらやったってダメだよ。
人間は気力を失ってしまう。やる気をなくしてしまう。人々に勇気を与える、人々が努力することを奨励されてきた
といっても間違いではありません。そこで相撲はまず豊作儀礼として、豊穣儀礼として行われてきた。こういうふう
に学問的には書かれております。
 しかしそれだけではありませんでした。スポーツの利用された一番の大きなことは今日でも形、様は変えて
おりますけれども、数日前、天皇皇后両陛下が国技館にお出ましになり、相撲をご覧になられました。このように
もっとも今の皇族方は異なりますけれども、世界的に見た時に最高実力者、権力者、政治家はスポーツをする
人達、この人達をも支配する、そしてやる人達が従う、という儀式がありました。そして勝った方にみんなが心を
一つにして大きな拍手を送ることができる。また敗者に対しても、その敢闘精神を高く評価することができる。
このような一面がありますから私は外交上、極めて有利な一面があるのだろう、こういうふうに思っております。
その視点から考えてみますと、百数年前にクーベルタンが創めたオリンピックムーブメントはやはりスポーツ文化
普及のために大きなメリットがあったというよりも、やはりこれは大きな平和運動であった。このように捉えるべき
だと思っております。そしてまさに平和の祭典、このように表現しても差し支えない人類の名立たるイベントで
あろう、こういうふうに思うのであります。現在では、それらが政治に利用されて商業主義に陥っている、また
もはやアマチュアリズムは死んでしまった、等々、いろんな批判がありますが、だんだんとその輪は広まり、
重厚さを増してきているように思います。
 しかし、問題がない訳ではございません。例えば、近年私達が政治について考える時に、よく言われるのは
グローバルスタンダードという言葉です。けれどもこの言葉で本当に一括りにすることができるのでしょうか。
こう思いました時に、極めて難しい面があります。分かりやすく申しますと、世界でイスラム教徒は概ね15億人
前後いると言われています。その中で女性が半分いたとするならば、この人達はイスラムの教えに従って生活を
して、人前で肌をさらすことはできません。しかし「私は水泳が好きだ」あるいは色々なコスチュームを身につけて
スポーツをするということを、果たしてイスラム教徒の女性が許されるのだろうか。こう考えますと、イスラム教徒は
オリンピックに出場することができないというより以前にスポーツを楽しむことがなかなかできません。
 例えば、女性がオリンピックの水泳でメダリストになったといっても本当に世界一になったかというと、それは
悲しいけれども3分の1の人が参加していないオリンピックということになります。私はスポーツの強い弱いという
ことを競うということに異存はありません。今後さらに、世界の全ての人々が同じ考えを持ってスポーツを楽しむ
ことができれば、オリンピックはもっと大きな平和運動へと発展していくのではないか、と考えるのです。
 これを服属儀礼と呼んでおりますけれども、結局は戦人、武士あるいは戦士、兵士がこうした服属儀礼を教えて
くれています。そして、わが国の日本書紀を読むまでもございませんが、これからはっきりしていることは、名立た
る人物が亡くなった時に、お送りする儀式として相撲をとったという葬送儀礼という儀式がありました。これらの
儀式はやはり我々の国だけではなくて多くの国々で人が亡くなった時にはスポーツのイベントをやるということが
あります。それもやはりスポーツというものが神聖なものとして捉えられてきた証なのではないかと思います。
 豊穣儀礼として、服属儀礼として、そして葬送儀礼として行われただけではありません。多くの人々は「自分は
この人生でこういうことをやりたい」そう思って生きているわけですが、途中で夢が叶わず命を絶たれるということ
が多分にあると思います。その人達に対する思い、その霊を慰めるための儀式としての相撲、スポーツがやはり
各国で行われてまいりました。
 ところで、お相撲さんが四股を踏みますが、あれは単に準備運動ではなくて霊を慰める、台地に眠る人々の魂を
鎮めるための鎮魂儀礼であるといわれています。このように、スポーツは鎮魂儀礼として行われてきたという一面
もあります。つまり政治が成熟していないから何かを使って人々がうまくいくように考えなければならない。それに
スポーツが、身体文化が使われてきた、と私は思うわけです。ちなみに、先の国会で文化芸術振興基本法という
法律が成立致しました。ここでは、古武道等、これらも文化として奨励、振興していかなければならないというふう
に書かれています。けれども、いろいろな種類がございますのでひとまとめにすれば、どのように表現すればよい
のか、というのが議題にありました。私はかつてスポーツをもっぱらとしておりましたし、そのジャンルで生きてき
たものとして、私はこれを身体文化と表現させていただきました。そしてこの法律の一番後ろに身体文化という
言葉が法律の中に書かれるようになりました。私は身体文化という表現は「学術的ではない」とか「一般的で
ない」という批判を政治家からいただきましたけれども、私は堂々と胸を張り、これは「普遍的な言葉である」とし、
最終的には、法律の中にはこれが付帯決議の一番最初に出てくるようになっております。身体文化という言葉を
法律の中に入れたという喜びを得られたのは政治家にしていただいたお陰だと思っています。そこで私達は「スポ
ーツと平和」と言われた時にまず、日本と中国の国交回復する前の行われた、いわゆるピンポン外交が想起され
ます。スポーツ選手が先に行って、そこで試合をする。このことが相互の理解を深め、最終的には国と国とが手を
握るという形になったことは、皆様ご記憶に新しいところだと思います。なぜそんなことがスポーツにできるんだ
ろうか、なぜ平和のためにスポーツが役立つのだろうかと考えていただきますと、スポーツと芸術だけはどんなに
人種、言語、文化、宗教が異なる、まして生まれ育った風土、環境が異なったとしてもスポーツは同じルールで
互いに戦うことができる。つまり全てを超越して、そのルールだけに固執して戦うことができる。それができるのは
スポーツと芸術以外にありません。例えば、パレスチナとイスラエルの紛争を見ておりましても両者の言い分は
異なります。そして両者の言い分に「なるほど」と思われる一面もあります。そのことはカシミール紛争も同じで
あります。パキスタン側の言い分、インド側の言い分、これに耳を傾けてみると双方に「なるほど」と納得させられ
るわけであります。けれども、スポーツはどんなに思想背景が違っても同じルールで強弱、優劣をつけられるとい
う大変大きな特徴があります。
 そして現在、そのための工夫をする時代に差し掛かっているのではないでしょうか。あまりにもキリスト教文化圏
を中心にしたオリンピックになってはいないだろうか。このことを私は最近考えております。スポーツと芸術だけが
平和を作る大きな有効な人間の考えた偉大な装置であると考えるならば、全ての人を包括的に集める事ができ
るのではないかと考えております。そこでなぜスポーツが平和の手段になりうるか、外交の手段になりうるのか、
それは先程申し上げた通りでございます。けれども、私はそれだけだとは思っておりません。その理由として、
ひとつは共通のルールがあると申し上げました。もうひとつはスポーツには宗教的行事から出てきたものもありま
す。しかし、近代化されたことによってそのルールは非宗教的なものになっているように思います。そこに世界の
人々が参加することができる、そこにもってきて人間だけが実は投石本能というものがあります。スポーツ人類学
を紐解いてもらいますと、一番最初に学ばなければならないのは、他の動物と人間との違い、つまり人類は
ホモ・サピエンスであると同時にホモ=フンディトゥールと呼ばれる「投石人」であるということであります。人だけ
が石を投げることによって狩猟ができるようになったわけです。狩猟ができるようになったが故に地球を人類が
支配するようになりました。結局、肌の色や目の色、鼻の高さ、言葉が違っても人類として同じ本能を持っており
ます。それは、投石本能から始まり、狩猟を営むようになり、一番の権力者は上手に石を投げて獲物を獲得する
ことでありました。そこから、石よりも槍の方がいい。いや、槍よりも弓矢の方がいい。そしてその時代は長く続き
ましたけれども、この一連の流れは最終的には銃につながるわけであります。しかし、そのプロセスの中で私達
は獲物に武器を向けておりましたけれども、人間は悲しいかなその武器を人に向けるようになってしまいました。
より早く、より遠くへ、より正確に物を投げることができる、ということの延長が、全てを支配するようにな
ってしまったわけであります。野球の面白さや他のスポーツの面白さ、とりわけ球技はそうであります。実は、
支配というもの、権力というものを考えた時に、この考え方は大きな力を持っております。なぜこれだけ平和になっ
た日本が安全保障という問題で頭を悩ませなければならないのかといえば、ミサイルを持つ国が我々の国の
近隣にあり、より速く、より遠くへ、より正確に、より威力のあるものを投げつけることができるということが大きな
力につながるわけあります。その力を持つ国がある限り、私達もこの国をいかにして守り抜くかという事を考えな
ければなりません。人間が目の前の獲物を獲得して生活しようと考えた方法が、結局は恐ろしい武器を作りだし
そしてその武器を持ったものが世界を支配するというふうになってしまいました。これも身体文化の流れであると
思います。これらの武器を使わなくて済むように、世界の国々が平和になるように、私達はスポーツを通して外交
を盛んにしていかなければなりません。つまり、スポーツによって、人と人が互いに向き合って競う、そこから真の
友情が生まれ大きな広がりを持って平和をもたらしてくれるのだ、とこのように思います。その意味におきまして、
スポーツを盛んにし、そして世界の人々が一堂に会して平和を感受できる日が、一日も早く来ることを願って
やまないものであります。海部総理から、荒川先生がアフガニスタンで子供達にティーボールを、というお話が
ありました。この国の人達はクリケットを理解しておりますから、球を打つということをすごく楽しみにするだろうと
思います。
 まもなく本当の平和がやってくれば、23年間も戦火の中で平和というものを味わうことのできなかった人達に
ティーボールを通じて平和を味わっていただければありがたい。そのために、私も汗を流させていただく、という
ことをお誓い申し上げまして、時間がまいりましたのでスポーツと平和と題するつたない私の講演を終わらせて
いただきます。どうもご清聴ありがとうございました。(拍手)
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