3月3日「浪商の後は、平安高校野球部 鉄人衣笠祥雄さん。その1」

 二回連続大阪の浪商を書いた。当時の平安のライバルばかり書いて、私の出身校「HEIAN」を書かないなんてOBに怒られます。平安を代表する野球選手となると、もうこれは「衣笠祥雄」さんしかいないでしょう。国民栄誉賞受賞者、これを頂いたのは、野球界では王貞治、長嶋茂雄、松井秀喜の4人だけ。この4人の中で、アメリカで最も高い評価を受けているのは、「衣笠祥雄」さんです。それは、連続試合出場というアメリカでも日本でも同じ土壌で比較できる記録だからです。

 今日は、衣笠祥男さん。その1.「衣笠祥雄さんとアジアティーボール連盟」について書きます。

 さて、その衣笠祥雄さんと私は平安高校野球部で一緒に汗をかいたことがあります。彼は私の1学年下です。彼は平安高校時代からの名選手。私はあのキツイ平安の野球部の練習を如何にサボるかばかり考えていたヘボ選手。

 2010年1月22日、日本、韓国、台湾、中国の代表者が早稲田大学に集まってアジアティーボール協会第1回会議が開催されました。その折、韓国、中国、台湾の代表者から、私にアジアティーボール連盟の会長にと推薦され、私が固辞し続けたとき、荒川博先生から「吉村先生が受けなければ、このアジアの会議は前に進まないよ」と進言されました。私では役不足と思いましたが成り行き上OKせざるを得ませんでした。私は無名。助けてくれる人が必要。それが衣笠さん。私はすぐ衣笠さんに電話して「アジアティーボール連盟の顧問になってください」と懇願。お会いしてお願いすることになりました。

 彼と会うときはいつも東京プリンスホテルの喫茶室。彼は「先生が頼むなら引き受けましょう」という返事。私は「衣笠さんありがとうございます。今後とも宜しくお願いいたします」。それ以降、アジアのティーボールについては彼から様々、アドバイスを頂きました。

 顧問を引き受けてもらう15年前の1995年、彼から1枚のはがきが来ました。そのには、プエルトリコに行って子供達が元気に野球をしている姿を見て来ました。その折アメリカでもティーボールがさかんといったような内容でした。ご存じのように日本ティーボール協会発足が1993年、その2年後のことでした。このはがきの内容が長く私の頭の中にあり、大事なときは衣笠さんに助けてもらおうと思っていたのです。普通に考えると、「アジア」、「荒川先生」なら王貞治さんにお願いするのが筋ですが、これまでの衣笠さんと私の関係を知る荒川先生に説明すると、「先生、いいじゃない」と言う好意的な返事を頂いたのでした。

 衣笠さんには、1度日本ティーボールセミナーで基調講演をお願いしようと思っていたのですが、それも叶いませんでした。残念です。彼は2018年4月天国に行かれました。

今日は、前回書いた浪商の方々も凄かったが、その時代平安高校野球部にも物凄い人がおられた、ということを紹介しました。