5月10日 ハワイの旅(第1報)。JAL70周年記念特別企画で思い出す。1968年頃の「ジャルパック4泊6日ハワイの旅」

 今日の朝日新聞26面は全面広告。内容は「JAL70周年記念特別企画」【70周年(2021年10月1日)を迎えた日本航空からの感謝の気持ちと宿泊施設の協力により実現した特別コース!】とあります。JALですか。私はJALというと、1968年「ジャルパック4泊6日ハワイの旅」を思いだします。当時は特別の人だけが行けるところがハワイでした。

 今日の広告は日本の有名どころばかり。夏の新作・7.7万円4日間。「三陸海岸とみちのく人気の観光地をぐるっと巡る!」下北・津軽。「四万十川・しまなみ海道・淡路島 四国の味覚と7つの絶景」。「あかん遊久の里鶴雅に泊まる ベストシーズン北海道ひとめぐり」花咲く富良野・美瑛へ。「白神山地・八幡平・みちのくハイキングと海沿いを走る人気のリゾートしらかみ」。「有馬温泉・城崎温泉・丹後半島と古都京都」竹田城跡、天橋立、南禅寺、神戸。

 皆良いプランですね。想像するだけで明るくなります。全てのツアーに行きたいです。この2年数ヵ月コロナ禍の影響で、東京を出ることはほとんどありませんでした。期間は、6・7・8・9月です。さぞや希望者が多いことでしょう。

 私が今行って見たいところは、やはりハワイですかね。1968年に初めてハワイへ行きました。55年前のことです。それから、毎年のように行っていました。1969年から1971年迄の2年半は、ホノルルビジネスカレッジの学生と本願寺日本語学校の教員並びに野球・ソフトボールの招待選手。1985年から1986年の1年間はハワイ大学の客員教授と野球部・ソフトボール部の客員コーチ。計3年半は、長期に滞在していました。こんな経験があるので、ティーボール協会の仲間から、「先生、この暗いご時世、ハワイの明るい今昔物語を書いてください」というリクエストを頂きました。

 そこで今日の、JAL70周年の広告に出会いました。今日から気が向いたときは、「理事長からのメッセージ・ハワイ編」を書きます。ご理解ください。

 先ず今日は、約55年前のJAL。「ジャルパック4泊6日ハワイの旅」を紹介します。

 1968年、京都明徳女子商業高校のソフトボール部コーチとして、初めてハワイに行きました。それは、この高校で、大学4年間ボランティアとしてソフトボール部のコーチを務めたこと、4年生の教育実習もこの女子高校で行わせて頂いたこと、によるものです。いわば、そのご褒美で、校長先生、部長先生、コーチの先生の推薦で、当時言われた「夢の国ハワイ」へ行けたのでした。1ドルが360円。チームとしては、多くの寄付金を多方面から頂いての出発でした。

 ハワイ州では、オアフ島、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島(ヒロ市とコナ市)で試合を行い、宿泊場所は、各島、日系人家庭のお宅(ホームステイ)でお世話になりました。ホテルに泊まるお金はありません。くどいようですが、1ドル360円、現在のように1ドル130円ではありません。日系人の皆さんには、滞在中、車での送り迎え、食事全てお世話になりました。ハンバーガーを食べるのも、フレンチフライも初めて。その上、黒い水、なんだこの薬みたいな飲み物は? そうです、それがコカコーラでした。全てが初体験。

 ソフトボールの試合では、京都明徳女子高校の大勝が続きましたが、ハワイの日系人も我々監督・コーチ・選手も笑顔・笑顔の連続でした。これが本家のソフトボールか・・・。学びは本当に多くありました。お世話してくださる日系人は皆二世。皆さんは見事なバイリンガルで、我々遠征団は、何不自由なく、最高の思い出を残してその遠征を終えることが出来ました。感謝・感謝でした。

 その遠征で2泊だけ我々はホテルに泊まりました。それは初日と最終日です。初日は「中村ホテル」で、そこは日系人が経営。キングストリートに面しています。近くにマッケンレー・ハイスクールがあります。初日はその校庭を借りて軽く練習。当時、日系人が経営するホテルがもう一つ「小林ホテル」。このホテルは、他の島から来る日系人の常宿でした。余談ですが、後年、私がこの思い出の「中村ホテル」に泊まると、日体大教授でオリンピックのメダリストとこのホテルでバッタリ会いました。その先生とは私が日体大で10年間非常勤講師として勤務した時、出会うといつのこの話で笑顔・笑顔。旅の出会いは良いものです。

 最終日に宿泊したのは、ホノルル・グランド・ホテル(当時は日系人の経営)です。ホノルル・ズー(動物園)の前にあり、ワイキキ海岸まで、歩いて1・2分。現在その隣に「クイーン・カピオラ二・ホテル」があります。そのホテルに宿泊して初めてワイキキ・ビーチに行ったのを覚えています。

 その時に、短時間でありましたが、2、3人の観光客に会ったのが「ジャルパック4泊6日の旅」で来られた方々でした。当時私がワイキキ・ビーチで出会った日本人はその方達だけ。そこから3、4分歩けば、あのピンク色で現在有名なロイヤル・ハワイアン・ホテルでしたが、当時はそれも知らずに帰国してしまいました。ビーチがとても美しかったことだけは覚えています。ビーチにいる観光客は少なかったです。

 その7ヵ月後に早稲田大学を卒業し、5月に日系ハワイ野球・ソフトボール協会会長のコイケ・マサオ先生が日本にお越しになり、その先生の帰国便で、私は先生と一緒に再びハワイへ出発することになったのです。

 当時のテレビに、「アップダウンクイズ」という番組があり、視聴率が高く、司会者は「クイズを当てて、夢のハワイへ行きましょう!」と。誰も彼もが行けるハワイではありませんでした。

 それから55年、日本もハワイも随分変わりました。ハワイの旅、第1報でした。旅の話は書いていても楽しいです。