5月13日「円安の1970年、ハワイでKM君と出会う。ルールを韓国語に。韓国でティーボールが発展しています。」

 今日の朝日新聞の見出しを少し拾ってみます。

 円安 企業に最高益 好業績でも苦しい家計 恩恵届かず 物価高・賃上げ不十分 円安 輸出企業に追い風 伸び悩む消費意欲 食品・建設・玩具には悪影響 難しい経済の好循環 個人消費は伸び悩み、国内の需要回復による経済の好循環にはつながりにくい

 円安の1970年、ハワイ・ホノルルビジネス・カレッジにおいて、私24歳は、一人の学生(友人)に出会いました。名前はKM君。M大付属高校の出身18歳。6歳下ですが品が良く、いかにも東京のお坊ちゃまという感じでした。出会ったクラスは、確かビジネス・タイプライターの授業。キーボードを見ないで如何にして正確に早く打てるかというもの。ハワイの地元出身で、秘書コースの女子学生は、1分間に100ワード前後を楽に打ちます。私は不器用で、20ワードがいいところ。当時使用していたタイプライターは、確か「ロイヤル」製でした。彼も私も苦戦しました。

 冬の初め頃、ハワイ大学(総合大学)以外の小規模大学(カレッジ)だけの「大学対抗ソフトボール大会」が企画されました。そのため、大会の2ヵ月前くらいに、我が大学もオールスターチームを創ろうということになり、私が中心となり、メンバーを集めました。投手はサモアから来た留学生トウジョウ君、ファーストは韓国からの留学生パク君、サードはKM君。高校まで野球をやっていたというのです。ショートは私。投手をすることは、他大学から原則「NO]と言われました。招待選手として名が知られていたからです。沖縄から親戚を頼って留学していた比嘉君もいました。その他の選手は、地元の高校を卒業したソフトボールと野球の経験者。

 大会では、投手のトウジョウ君のボールが速く、更に変化球も素晴らしく、他大学のソフトボールチームは彼を打てません。結果は我々が優勝。その祝賀会に、私のボロアパートとフロントヤードを開放して、楽しいひと時を過ごしました。当時円安で、留学生たちはお金がありません。それぞれが料理を持ち寄って、生まれて初めての学生だけによるハワイでの優勝パーティーを行ったのでした。

 その時、KM君が乗っていた車が確か「サンダーバード」。大きな車で、道路を滑るように走るのです。私は日系人の車に乗せてもらった事はありますが、日本人が運転する車に、まして年下の学生の車に乗るということは、私の人生で初めてでした。凄いなあと感嘆した瞬間でもありました。円安の時代、出来得ない体験をしました。今でもその55年前のことを鮮明に覚えています。

 このKM君、1993年「日本ティーボール協会」を設立した時から、約20年程理事として、一緒にティーボールの普及に協力してくれました。彼は、ハワイで学習した後、アメリカ本土に渡り、7年間CMN大学に進学し、高い教養を身に着けました。英語も堪能。日本協会設立当時は、大手の音楽会社の重役で、その後は社長を務めました。出世は早かったです。ビートルズやカーペンターズに関する仕事もこなしていたようです。

 1995年私は、日本式ティーボールをアジアに普及したいと考え、4ヵ国のルールブックを作成することにしました。協会をスタートさせてちょうど2年目の11月22日「日本語・英語・中国語・韓国語」のルールブックを完成させました。英語と中国語に関しては、アメリカと中国から来た私の教え子に翻訳を頼みました。問題は、韓国語。友人や教え子がいないのです。当時韓国からの留学生はいません。ハワイ大学のイースウエストセンターをよく知る私としては、残念でたまりませんでした。日本と韓国とはスポーツを通して仲良くならねば。私の切なる願いの一つでした。

 当時、ハングルが打てるタイプライターは、日本では出会えません。私は世界的にネットワークのあるKM君に韓国語の翻訳をお願いしました。彼はすぐに知人である韓国のある大学の学長に連絡、翻訳を仕上げてくれたのでした。その4か国の「ルールブック作成委員会」の委員長は吉村正。副委員長は、当時専務理事だった末次義久さんとこのKM君。このルールブックを作成したために、韓国・中国・英語圏のフィリピン等に広がって行ったのです。

 このルールブックを見た韓国のテレビ局が、翌年1996年2月25日、東京世田谷区の池尻中学に取材に来てくれました。そこに取材に対応してくれたのが、KM君でした。その様子は、「写真で見る日本ティーボール協会3年の歩み」(編集委員会吉村正委員長・木村一郎副委員長・丸山克俊委員・大川一毅委員)の「ティーボールの国際化」(96-97ページ)に掲載しました。ご覧ください。

 その後、丸山克俊先生と日本体育大学との関係で、その卒業生であったソ先生とパク先生が、先ず日本ティーボール協会の役員として加わり、その後それぞれが独立して、韓国で連盟や協会を設立なされたのです。その間、日本と韓国は、ティーボールを通して実に仲の良い関係です。

 円安、ハワイ、日本、韓国と繋がります。円安は別として、ティーボールでは、ハワイ、日本、韓国皆仲良しです。  今日の「理事長からのメッセージ」は、円安時代の1970年KM君との出会いから、韓国ティーボール協会、韓国ティーボール連盟が創設されるまでの歴史を紹介し

 円安の1970年、ハワイでKM君と出会う。ルールを韓国語に。韓国でティーボールが発展しています。

 今日の朝日新聞の見出しを少し拾ってみます。

 円安 企業に最高益 好業績でも苦しい家計 恩恵届かず 物価高・賃上げ不十分 円安 輸出企業に追い風 伸び悩む消費意欲 食品・建設・玩具には悪影響 難しい経済の好循環 個人消費は伸び悩み、国内の需要回復による経済の好循環にはつながりにくい

 円安の1970年、ハワイ・ホノルルビジネス・カレッジにおいて、私24歳は、一人の学生(友人)に出会いました。名前はKM君。M大付属高校の出身18歳。6歳下ですが品が良く、いかにも東京のお坊ちゃまという感じでした。出会ったクラスは、確かビジネス・タイプライターの授業。キーボードを見ないで如何にして正確に早く打てるかというもの。ハワイの地元出身で、秘書コースの女子学生は、1分間に100ワード前後を楽に打ちます。私は不器用で、20ワードがいいところ。当時使用していたタイプライターは、確か「ロイヤル」製でした。彼も私も苦戦しました。

 冬の初め頃、ハワイ大学(総合大学)以外の小規模大学(カレッジ)だけの「大学対抗ソフトボール大会」が企画されました。そのため、大会の2ヵ月前くらいに、我が大学もオールスターチームを創ろうということになり、私が中心となり、メンバーを集めました。投手はサモアから来た留学生トウジョウ君、ファーストは韓国からの留学生パク君、サードはKM君。高校まで野球をやっていたというのです。ショートは私。投手をすることは、他大学から原則「NO]と言われました。招待選手として名が知られていたからです。沖縄から親戚を頼って留学していた比嘉君もいました。その他の選手は、地元の高校を卒業したソフトボールと野球の経験者。

 大会では、投手のトウジョウ君のボールが速く、更に変化球も素晴らしく、他大学のソフトボールチームは彼を打てません。結果は我々が優勝。その祝賀会に、私のボロアパートとフロントヤードを開放して、楽しいひと時を過ごしました。当時円安で、留学生たちはお金がありません。それぞれが料理を持ち寄って、生まれて初めての学生だけによるハワイでの優勝パーティーを行ったのでした。

 その時、KM君が乗っていた車が確か「サンダーバード」。大きな車で、道路を滑るように走るのです。私は日系人の車に乗せてもらった事はありますが、日本人が運転する車に、まして年下の学生の車に乗るということは、私の人生で初めてでした。凄いなあと感嘆した瞬間でもありました。円安の時代、出来得ない体験をしました。今でもその55年前のことを鮮明に覚えています。

 このKM君、1993年「日本ティーボール協会」を設立した時から、約20年程理事として、一緒にティーボールの普及に協力してくれました。彼は、ハワイで学習した後、アメリカ本土に渡り、7年間CMN大学に進学し、高い教養を身に着けました。英語も堪能。日本協会設立当時は、大手の音楽会社の重役で、その後は社長を務めました。出世は早かったです。ビートルズやカーペンターズに関する仕事もこなしていたようです。

 1995年私は、日本式ティーボールをアジアに普及したいと考え、4ヵ国のルールブックを作成することにしました。協会をスタートさせてちょうど2年目の11月22日「日本語・英語・中国語・韓国語」のルールブックを完成させました。英語と中国語に関しては、アメリカと中国から来た私の教え子に翻訳を頼みました。問題は、韓国語。友人や教え子がいないのです。当時韓国からの留学生はいません。ハワイ大学のイースウエストセンターをよく知る私としては、残念でたまりませんでした。日本と韓国とはスポーツを通して仲良くならねば。私の切なる願いの一つでした。

 当時、ハングルが打てるタイプライターは、日本では出会えません。私は世界的にネットワークのあるKM君に韓国語の翻訳をお願いしました。彼はすぐに知人である韓国のある大学の学長に連絡、翻訳を仕上げてくれたのでした。その4か国の「ルールブック作成委員会」の委員長は吉村正。副委員長は、当時専務理事だった末次義久さんとこのKM君。このルールブックを作成したために、韓国・中国・英語圏のフィリピン等に広がって行ったのです。

 このルールブックを見た韓国のテレビ局が、翌年1996年2月25日、東京世田谷区の池尻中学に取材に来てくれました。そこに取材に対応してくれたのが、KM君でした。その様子は、「写真で見る日本ティーボール協会3年の歩み」(編集委員会吉村正委員長・木村一郎副委員長・丸山克俊委員・大川一毅委員)の「ティーボールの国際化」(96-97ページ)に掲載しました。ご覧ください。

 その後、丸山克俊先生と日本体育大学との関係で、その卒業生であったソ先生とパク先生が、先ず日本ティーボール協会の役員として加わり、その後それぞれが独立して、韓国で連盟や協会を設立なされたのです。その間、日本と韓国は、ティーボールを通して実に仲の良い関係です。

 円安、ハワイ、日本、韓国と繋がります。円安は別として、ティーボールでは、ハワイ、日本、韓国皆仲良しです。  今日の「理事長からのメッセージ」は、円安時代の1970年KM君との出会いから、韓国ティーボール協会、韓国ティーボール連盟が創設されるまでの歴史を紹介し