5月16日「沖縄復帰50周年。沖縄ティーボール連盟、沖縄と野球・ソフトボール。今後何が協力出来るのか」

 昨日は沖縄が日本に復帰して50年目を迎えた記念すべき日でした。そのため、「沖縄復帰50周年記念式典」が、沖縄県宜野湾市と東京都の2会場を繋いで開催されました。これを機会に、「沖縄県ティーボール連盟の活躍」と、「沖縄の野球・ソフトボールと私」を少しばかり紹介しながら、今我々は沖縄のために何が出来るか、これを考えましょう。

 私が沖縄へ連盟を創設するために行ったのは、確か28年前の1995年12月だと記憶しています。飛行機に同乗したのが、東京都世田谷区で一緒に世田谷連盟を創設したU議員、彼は飛行機ではなぜか私の真横に座らず一席開けての着席、今風に言うとソーシャルディスタンスをとっての機上でした。何故かこんなとりとめもないことを鮮明に覚えています。

 12月7日夜に沖縄県の設立総会に立ち会い、その翌日「第1回沖縄オープンふれあいティーボール大会」をコカ・コーラ社の後援を得て開催しました。その時に意気投合して友人になったのが設立当時は副会長だった糸洲朝則先生。日本ティーボール協会では評議員を創設以来約28年間お務めいただいています。全国大会や日本ティーボールセミナーにも数回ご出席されています。コロナ禍の前の「第22回全国小学生(3・4年生)ティーボール選手権大会」では、「兼城パイレーツ」が沖縄代表として、沖縄っ子の最高の笑顔を我々に届けてくれました。今年の予選会はどのようになっているのでしょうか。コロナが少し落ち着いたら、沖縄県連盟の活動を、糸洲先生と下地先生に電話して聞いてみます。また、皆さんご存知の沖縄SUNソフトボールの仲里幸剛評議員は、現在埼玉県に出張中です。そのためか、昨年12月の全国大会には、メットライフドームのお越し下さり、感染予防等の観点から協力頂きました。感謝しています。

 沖縄との野球の思い出は、1964年に遡ります。確か夏の甲子園大会で、沖縄代表の首里高校が戦後初めて、甲子園の土を踏みました。新聞で読んだ記憶があります。当時私は近畿予備校生、人生で一番勉強をしていました。その関係でこの年の甲子園大会はテレビでは一切観ていません。早稲田大学に入学してからの4年間、沖縄出身の学生に会うことは全くなかったです。卒業後5月にハワイに渡り、日系野球リーグに所属すると、相手チームにその首里高校野球部時代に甲子園出たというY君がいました。彼はアメリカ人とのハーフで、野球も上手でしたが、格闘技の方に転向されました。どうされているかな?

 その次に出会ったのが、以前ここでも少し書いた我喜屋優氏。彼は1971年大昭和製紙が都市対抗で優勝、そのご褒美としてオーストラリア・ハワイ遠征に選ばれました。ハワイでの私は早稲田大学野球部出身の長倉捕手、角田遊撃手、小田一塁手、安田投手のお世話が主でした。しかし、我喜屋選手は沖縄出身、ハワイには沖縄からの移民が大勢おられます。沖縄県人会もあり、彼らが応援するのは、この我喜屋君。そのため私も彼のプレー、一挙手一投足に注目していました。その時はまだ20歳前後だったと思います。外野手としてしっかりとプレーされ、また、最年少選手。先輩への配慮等も完璧でした。帰国後に大昭和白老で活躍され、私は応援していました。現在は、2010年7月から興南中学・高校の理事長。2011年から校長も兼任されているとか。お会いするとなれば、50年振りとなります。彼は私を覚えているでしょうか?

 ソフトボールと沖縄。ハワイ・オープン・ソフトボール(全島)大会で優勝した時のチーム名は「ジョリー・ロジャース」、そのオーナーが沖縄出身者。そのユニフォームが白台に赤と青のラインが入っており実に綺麗な色合いでした。1976年8月に出版した「写真で見るソフトボール」の著者紹介の写真(205ページ)は、留学中に2年3ヵ月宿泊していた古いアパートの前で撮ったもの。その時着ていたのがジョリー・ロジャースのユニフォームです。

 そのアパートで生活した時のルームメートが、沖縄出身のケン・マシタ君、日系3世。ベトナム戦争から帰って、ハワイ大学に特待生として学んでいたアメリカ人。ご両親は二人とも二世で沖縄在住。ケン君から戦後の沖縄の話とベトナム戦争の話は、よく聞きました。辛い話ばかりです。戦争は、絶対反対です。

 1971年夏に帰国して、すぐに沖縄に行きました。ケン君のご両親に会い、ケン君がハワイ大学でどのような学生生活を送っているかを報告するためでした。その時の沖縄は、まだ、日本には返還されていません。返還の約7か月前くらいだったでしょうか。お父上に沖縄を案内してもらい、多くのご好意を頂戴しましたが、その案内されたほとんど全ての場所で涙・涙です。そのためか、美しい首里城やその他の観光地の記憶はほとんどありません。道路の車はまだ右側通行でした。

 1975年早稲田大学体育局助手に採用されてから、今日までは、沖縄からの人に会うというと、ほとんどが大学生。ゼミ生、ソフトボール部員、皆気持ち良い学生ばかり。

 この「沖縄復帰50年式典」を終えて、今、思うことは、私は、今まで沖縄の人たちに何が出来たのか。今後は、何が出来るのか、こればかりです。

 沖縄県ティーボール連盟の糸洲先生、下地先生、仲里さんたちとよく話し合って、協会として、今出来ることを模索していきましょう。そんなことを考えたこの一週間でした。