9月24日「昨日は中日福留孝介選手の引退試合。2010年はシカゴまで行き彼を応援しました。」

 昨日は、福留孝介選手の引退試合。現役最後の試合は読売巨人軍、9回から守備に就き、その裏1死から打席に入り、現役最後は二塁手へのフライでアウト。ホームランか長打で有終の美を飾るのではなく、福留選手らしく全てのプレーで全力を尽くしたその最後の雄姿でした。 ありがとう! 福留孝介選手!

 私は福留選手と会ったことはありません。ただ応援していた一人の人間です。なぜ私は彼を応援していたのか。それは彼が小学校の3年生から鹿児島ソフトボール連盟傘下で一生懸命プレーされているのを、協会の役員の方々から聞いていたからです。

 私が日本ティーボール協会鹿児島県連盟を創設してもらおうと、鹿児島県に飛んだのはもう30年近く前のことでした。当時その小学生チームを総括する会長が上村義昌先生。私は先生に鹿児島県ティーボール連盟を創設してくださいとお願いしました。当時、その鹿児島県には小学生のソフトボールチームは約500チームあり、その大会で優勝したチームの投手で4番が福留選手。また、彼は全国大会の優勝投手になったと聞いたことがあります。

 隣の宮崎県でも小学生のソフトボール大会はとても盛んでした。360チームが県大会に出場すると聞いていました。私は鹿児島県も宮崎県もよくソフトボールの指導で訪れていました。さて、その宮崎県でソフトボールといえば、元ロッテオリオンズの黒木選手。彼がウインドミル投法で素晴らしいボールを投げるのを、テレビや雑誌で観たことがあります。しかし、福留選手の投法は観たことはありません。引退後は、ぜひ彼のウインドミル投法を観てみたいです。英語で「マスルメモリー(筋肉は記憶しています)」。素晴らしい投球を観せてくれるのではないでしょうか。

 PL学園での彼の活躍は、報道の通りです。卒業時にはプロ野球7球団からドラフト1位に指名され、最終的には、近鉄バッファローズが指名権を獲得。福留選手はそれを拒否して、日本生命野球部へ。3年間社会人野球界で活躍。その後、中日ドラゴンズに入団したのでした。

 日本生命の社長は、もともと弘瀬氏。彼は日本生命の創設者の家計を継いでいた方。日本ソフトボール協会会長という方がこの世界では有名です。私が34・5歳で日本ソフトボール協会の外務の役員をした時の会長だったと思います。人格者でとても野球とソフトボールの憧憬の深い方でした。日本生命は社会人野球チームだけでなく、当時は社会人ソフトボールチームも所有しておられました。

 1993年、この日本ティーボール協会の最初の事務所は、東京都世田谷区成城駅前にあった「富士ビデオ・後のクロスメディア」の中に置きました。そこでは私は1977年頃「大学体育連合」の研究の一環で「吉村正のソフトボール教室」を「富士ビデオ」で製作しました。その縁でこの会社の山縣社長と仲良くなり、日本協会の事務所をその会社内に置いてもらったのです。

 その「会社=日本協会事務所」が入っていたビルが、何と「日本生命ビル」。

 福留選手が、2007年中日を退団して、FAでメジャーリーグのシカゴ・カブスに入団。6年間メジャーでプレー。彼がシカゴ・カブスにいた時、我々早稲田大学ソフトボール部(吉村正団長兼監督)は、2010年「第16回米国遠征(ワールド・シリーズ)」に参加しました。会場はシカゴの近くデモイン市です。この時はU-23の部で出場、幸いにも「世界一・優勝」を飾りました。その時のチームの捕手が2年後、日本ハムファイターズに入団した大嶋匠選手です。この頃から、彼をソフトボール界からメジャーの野球界か日本のプロ野球界へ進ませようと考え、この時、帰国を一日伸ばし、選手全員の観戦チケットを取り、シカゴ・カブスの試合を観に行ったのでした。目的は、大嶋にメジャーの凄さを知らせること、野球に興味を持たせること、そして、福留孝介選手への応援。

 そうそうその時の早稲田大学の遊撃手は、翌年主将となる西村一哉君、現在は日本ティーボール協会の理事。今年の全国大会でのベルーナドームでは5試合審判を引き受けてくれました。将来のこの協会をリードしてくれる人物の一人です。現在は、特別支援学校の先生として活躍中です。

 昨日の福留孝介選手の引退試合。なぜか彼と野球・ソフトボール、ティーボールそして日本ティーボール協会は、繋がっているような気がしてなりません。

 こんなことを考えてみた福留孝介選手の引退試合でした。福留孝介選手の今後の人生の活躍をお祈りします。