11月13日「国民皆ベースボールの研究と実践」約50年(その1)1975年、早稲田大学体育局に就職。1977年「ソフトボール」の授業が学校教育から消える
1975年、私は早稲田大学体育局に助手として採用されました。体育局の教員は専門の競技種目が日本や世界を代表するアスリートであって、学問も優秀であることが採用の条件でした。私は野球型の教員として採用。当時体育局では私の採用に対して、物凄い反対があったと採用後に聞きました。それは、体育局教員の総数が31人。その所帯に「野球型の教員が4人になる」。これは教員間のバランスにかける、この人事は偏りがある、というご意見。ごもっともでした。当時は、サッカー、ハンドボール、硬式テニスなど、スポーツの花形と言われる分野でもその専任教員はゼロ。これらゼロ分野の指導者を新規に採用してこそ、より充実した体育局になるのだ、と意見を述べる先生方が多くおられたのです。今思うと、この考えは実に正論です。でも、なぜか私は正式に終身雇用として採用されました。ラッキーでした。
業績は、1965年に早稲田大学ソフトボール同好会を1年生で創設した事。1年生の秋から主将で投手で主軸打者、それを卒業までの3年半続ける。翌年の1966年、主将として日本体育大学等と共に「全日本大学ソフトボール連盟を創設」。そして同年11月、「第1回大学ソフトボール選手権大会を駒沢公園軟式野球場でスタート」させた事。翌月の12月、早稲田大学安部球場において、「第1回東京都大学ソフトボールリーグを開始」した事等が評価されました。
卒業後は、ハワイに留学し、1969年、ハワイ州ソフトボールリーグで打率500で準新人王(打席数不足)。1970年、同リーグで最優秀選手、本塁打王、打点王、打率379、防御率2,95 ベスト9、ジョージ・アリヨシ特別誠実賞。1971年、最優秀選手、打率429、ベスト9。同年8月アメリカオールスターの選手兼通訳として帰国、日本代表チームを相手に打率600。
野球では、A・J・A野球リーグにおいてカールトン、半田(元南海・中日で活躍)と二遊間を組む。学歴では、ハワイ・ホノルル・ビジネス大学卒、日本大学大学院修士課程修了等が評価されたのでした。
当時の体育局の野球系教授は3人おられ、一人が軟式野球系で教務主任を経験した教授、二人目が野球部OBで、高校野球でも活躍され、スキーも担当できる体育原理がご専門の教授。三人目は同じく野球部OBで高校野球や六大学野球の審判として活躍した教授。この3人の教授はいずれも野球の指導者でしたが、授業の担当科目は「ソフトボール」。
その「ソフトボール」の授業は、使用球が1号ボール(ソフトボールとしては最も小さいボール・日本だけにしかない野球のボールに近い球)で、投捕間は10メートル、塁間は22メートルといったもの。野球に極めて近い「ソフトボール」を指導しておられました。
オリンピックや世界選手権大会では、使用球は3号球、投捕間は男子14,02メートル、女子13,11メートル、塁間は男女とも18,29メートルです。
この3人の先生の下で4年間助手として、様々学びました。3人の先生からは、この上記の「ソフトボール」を早稲田大学体育局で担当するようにと指導を受けました。随分悩みましたが、「ソフトボール」を教えるとなれば、世界で通用するルールを採用し、世界のソフトボールを指導することが早稲田では絶対必要と考え、同じ道は歩みませんでした。
採用されてから4年後、私が専任講師になり、一人で授業を担当できるようになると、「3号球(12インチ)を用いたソフトボールの授業」(6コマ)(世界共通のソフトボール)、更には、より狭い場所で出来る「14インチのソフトボールを用いた授業」(2コマ)、それに、夏休みに行う「野外活動」の教員としてスタートしました。計9コマ教える教員として、自分独自の指導生活が始まりました。
「実技」は上記のごとくで、方向性が決まりました。そしたら「学問」はということになります。私は「健康教育・体育科教育」それに「国民皆ベースボールの研究」を行うことにしました。それは、先輩の野球を教える教授が3人とも、競技の野球研究に全力投球されているので、その分野で似たような研究・教育・実践を行うと教員間でのバランスが宜しくないと判断したためです。野球型研究者でも棲み分けをした方が良いと判断しました。
そこから、私の「いつでも、どこでも、誰でも、楽しく出来る野球型の研究と教育と実践」が始まります。加えて「ソフトボールの競技性に特化した研究」、「投手のウインドミル投法の全国への普及」に邁進しました。全国では何百回と講習会を開いて頂き、指導しました。それ以外では著書・論文・評論等の執筆です。ソフトボールの技術指導法、戦術論、日米比較論、コーチ学、小学生のためのソフトボール、中学生や高校生のためのソフトボール、女子のためのソフトボール、日米比較論等を書き、ソフトボールマガジンでは25年間連載。著書は、計43冊になります。
早稲田大学体育局助手2年目の1977年。昭和52年のことです。戦後より小学校の体育科に必修授業として採用されていた「ソフトボール」が突然、当時の文部省の意向で無くなくなりました。この年から、私の「国民皆ベースボール」の実践と教育、更には各種の団体との交渉、折衝、戦いが始まるのです。 次回に続きます。
