5月1日 いつでも、どこでも、誰でも、手軽で楽しくプレーできるベースボール型球技は、なぜ明治時代に普及しなかったのか。
- 大球と重球(ソフトボール)の制限
高橋雄次郎は1898(明治31)年から1901(明治34)年の4年間に、3冊の「ベースボール型球技」に関する書籍を四海道より出版した。それらの著書名は、「新式ベースボール術」、「野球叢談」、「ベースボール術秘訣」である。これらの指導書には、ベースボールに使用する「用球(ボール)」について、次のように書かれている。
「球は本式に仕合する時には、三十七・八匁(5オンス)のもので、周囲が六寸五分から七寸五分(9インチ)の大きな球でなければいけないのです。『野球』には、七寸五分から八寸と書いてあるが、日本人には少し大きすぎるように考えます。」(高橋雄次郎著、「新式ベースボール術」、1989年、p.18、19)
すなわち高橋は、当時の日本人の体格や体力を考えた場合、9インチのボールでさえも大きいと判断したのである。
- 大球と重球(いずれも今日のソフトボール)の制限と衰退
高橋はさらに、「用球の制限」という項目で、9インチのボールより大きなボールと重いボールは野球には不適当であると記述した。
すなわち、彼は「仕合せんには、用球の重量と大きさを確定するを要す。又一箇以上の球を使用するも便宜なり、必ず規定以内の球を用ゆべきなり。元来規則に拠れば、用球は重量五オンス、即ち三十七匁八分以上、五オンス四分の一即ち三十七匁以下、周囲(球の最太円の周囲を指す)七寸五分五厘乃至七寸七分一厘即ち九インチ四分の一たるべきに、世に度外の重量と、大きさを育てる球を、仕合に持ち出して、対手の不備を衝き、之を破るの策を採れる者あり。(明に規則以外の重、大球なると承知にて)、此方略を創め、規則を揉欄したるものは、第一高等学校の選手とす。同校の対手を制するは秘訣として、珍重せられ、次第に地方に広がらんとするなり。此策の応用せられたもの少なからずべし、最も目立ちしものを挙ぐれば、彼有名なる「デトロイト号との仕合にて、第一高等学校野球場にて催されし時とす。第一高等学校にては美満津屋に命じて、七十二匁の重球(筆者注:16インチ・ソフトボールの重さ)を制せしめ、仕合に持出せし事。又明治三十年十月中対西片軍仕合。三十一年十一月対X軍の試合には、周囲八寸三四分の大球(筆者注:12インチ。ソフトボール[3号球の大きさ])を使用せし事とす。(中略)
周囲八寸の以上の大球は、投ずれば不随意「カーブ」をなし、又野球術に必要なる距離に投ずるは難し、達するも球勢緩慢にして野球術の興味を減殺するのみならず、普通球の場合と趣を異するを以て仕合の趣を異するを以て、仕合に心得に大なる変動を起こすものなり。即ち四十匁以上の重球、拾遺八寸以上の大球は野球術の用球に不適当のものなり。」(高橋雄次郎著、「新式ベースボール術」、1989年、p.51~53)
- 私の考え
- 以上のように、明治の後半アメリカから様々なボールのベースボール型が日本に伝来し、また、日本においてもそれに近いボールが製作されていた。アメリカのチームと対戦した第一高等学校は、対戦相手によって、ボールの重さや大きさを変えてベースボール型球技(今でいう野球型やソフトボール型の球技)を楽しんでいたと推測される。
私は、この重くて大きなボールこそ、今日のソフトボール(※当時のアメリカでは、ボールの周囲が12インチのボールは「キッツン・ボール」と呼ばれ、16インチのボールはインドア・ベースボールと呼んだ)ではないかと推察する。
明治の後半、野球界に大きな影響を与えた「野球叢談」と「ベースボール術秘訣」に「用球の制限」と記述されたことによって、当時の「いつでも、どこでも、誰でも、笑顔で楽しくできるベースボール型球技」の芽が摘み取られていったのである。
- だから日本人のアイディアにより、男性のための「いつでも、どこでも、誰でも、手軽にできる野球としてゴムまりボール=軟式野球」が誕生したのである。
- 一方、シカゴに留学していた大谷武一らは、「アメリカ発のいつでも、どこでも、誰でも、笑顔で楽しくプレーできるベースボール型球技(インドア・ベースボール、プレイグラウンドボール」を女性の間で普及させようと考えていたのではないかと推察する。
