10月26日「ロッテが3連勝すると優勝。こんな時には、日本ティーボール協会の大功労者・醍醐猛夫さんに如何に戦うかを聞いてみたかったです」

 昨日ロッテがソフトバンクに7対15の大差で負けました。優勝するには大事な試合を落としました。この後、残りゲームが3試合、1敗でもするとロッテの優勝は無くなります。ロッテは今若手の3人に勢いがあります。小島、河村、佐々木の若手3羽ガラスです。この投手をリードするのは、加藤か佐藤か柿沼か。3連勝ができるかどうか。このような時には、2年前の12月に天国に行かれたロッテの名捕手醍醐猛夫さんに如何に戦うべきかを聞いてみたかったですね。

 醍醐猛夫さん、日本ティーボール協会では大変お世話になりました。醍醐猛夫さんと私が親しくなったのは、彼の一人息子が私の早稲田の一番の教え子、ソフトボール同好会の名選手、私の授業を履修、その彼のバットスイングの素晴らしさ、性格の良さ、賢さ、どれをとっても一流でした。2年時にはアメリカ遠征に連れて行き、4年時には主将。そのためか、その年代の「納会」や4月の新入生歓迎会は、お父様(醍醐猛夫)さんが経営されていた小伝馬町の「スカイラウンジ」で開催。その頃からのお付き合いでした。今から約40年ほど前のことです。

 29年前の1993年、私が「日本ティーボール協会」を設立したときにまず初めにご指導頂いたのは、この醍醐猛夫さん。私が醍醐さんを最初に認識したのは、彼が早実で徳武さんと3、4番を打っておられた頃でした。その後、王さんと3年生と1年生とのバッテリー。卒業後は、プロ野球毎日オリオンズに入団され、当時新人ながら、左腕のエース小野正一投手とバッテリーを組んで活躍されたことなどを思い出します。そして、何よりも印象的だったのは、大映の永田さんが東京の下町に造った「東京スタジアム」の看板であるネームプレートに、「醍醐」とペンキで名前を書くと字数が多く、遠くから見ると真っ白に見えるので、一人だけ「ダイゴ」とカタカナで表示されるのでした。当時あの足長おじさん「アルトマン」がいて、あ! 外国人が二人試合に出ていると思わせてしまう光景がそこにはありました。

 醍醐さんには、日本ティーボール協会埼玉県連盟を創設するとき、その準備段階で、戸田中央総合病院の食堂「アカシヤ」で何回も打合せをしました。皆勤です。埼玉連盟を創設した時は、副会長にご就任。会長は医師でもあった佐藤泰三元参議院議員。当時の醍醐さんは、埼玉テレビで西武ライオンズが試合を行う時のほとんど全ての解説者。埼玉県の野球界では最も有名な人の一人でした。

 一方、醍醐さんと言えば、毎日オリオンズから大毎、東京、そしてその後千葉県に移りロッテの名選手、名コーチ、そのために、千葉でも大変お世話になりました。それは、1994年8月26日、「第1回関東オープンティーボール大会」を千葉マリンスタジアムで開催した時、私とロッテの職員さんとの間に入って頂きました。この大会では、副会長の稲尾和久さんも九州から球場に駆けつけてくださり、それはそれは盛大な大会を開催することが出来ました。ご存知のように稲尾さんがロッテの監督をなされた時のコーチの一人はこの醍醐さん。そんな関係もあり、ロッテの2軍が使用する武蔵浦和の近くの「ロッテ球場」の使用も許可して頂きました。これは、今もって「埼玉オープンティーボール大会」の会場になっています。この球場を借りに行く時も、私と一緒でした。

 また、日本協会でも設立当初から「顧問」。養護学校での生徒の指導、大会運営のお手伝い、協会主催の役員会等、一緒に多くの事をやらせて頂きました。その頃の養護学校の生徒が、今社会人となり、特例子会社のティーボール大会で活躍しています。息子が仕事で忙しいから、その代わりにと始められたティーボール指導でしたが、20数年間息子ではなく、私と一緒に、この協会で偉大なる貢献をしてくださいました。この御恩は決して忘れません。

 その醍醐猛夫さんとは、10年ほど前からは、プロ野球OBクラブでお互い理事。帰りは高田馬場方面でしたので、ここでもご一緒させて頂きました。

 そうそう醍醐さんのお姉さんが大塚駅近くで中華料理店を経営、そこの学生アルバイトは、私の教え子のソフトボール部員。よくおばさまから特別大盛りのチャーハンや餃子をご馳走して頂いたのを思い出しました。

 このように、醍醐猛夫一家とは、息子も娘も奥様もおばさまも、お孫さんも、皆ロッテファン、当然ですよね。その関係で私も応援しています。さて、あと3試合、全部勝てるかな、天国の醍醐猛夫さんと一緒に、注目しています。