10月28日 オリックス・バファローズ優勝。「耐えて克つ」でなく「耐えて勝つ」 おめでとうございます!

 オリックス・バファローズが25年振りでパシフィック・リーグの優勝を決めました。宮内オーナーと中島監督が握手を交わしているのを新聞を見て感動しました。昨日に続き昨年の最下位チームが優勝です。これは日本のプロ野球が始まって以来初めてのこと。25年前というと「がんばろう神戸」で、イチローや田口がいたとき以来のこと。よく我慢されましたね。関係者の皆さん。ファンの皆さん! おめでとうございます。

 京都出身の私は中学校時代、阪急沿線にある西京極球場(現若狭スタジアム)で阪急の試合を観るのが1番の楽しみでした。その関係か、阪急そしてその後のオリックスの試合はいつもチェックしていました。

 今年は、投手陣ではオリンピック日本のエース山本由伸が最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振等を獲得。宮城は、高卒2年目で13勝4敗、防御率2.51で新人王の最有力候補に挙がっている。この二人を軸にリリーフ陣も大活躍。打撃陣も吉田正尚が打率339、得点圏打率400、本塁打21本と圧倒的な数字を残しました。打率2位が西武の森の309ですから。そして、特筆すべきが杉本裕太郎、打率3位で301、本塁打はなんと32本。昨年までは、2軍の選手、中島監督と一緒に1軍に昇格以来、この信じられないような成績です。本当に凄い青山学院大学コンビ、おめでとうございます。また、ベテランのT-岡田の活躍、高卒2年目で遊撃手のポジションを確保し、活躍した紅林、まだまだ多くのいい選手が育ちました。お見事です。皆さん本当におめでとうございます。

 オリックス・バファローズは、その前身が阪急。1リーグ時代から存在する名門中の名門。 1936年、小林一三氏が「大阪阪急野球協会」として設立。1946年阪急ブレーブスと改称。1989年オリックス・ブレーブス、翌年1990年オリックス・ブルーウエイブ、そして、2004年あの大阪近鉄バッファローズを吸収合併。2005年から現在の「オリックス・バファローズ」となりました。この間、多くの名選手を輩出しました。

 私が中学時代から応援したのが左の梶本、300勝投手米田、アンダーハンドの足立の3本柱。打者では、やはりスペンサー。私の頃は、2年先輩の撫養高校から法政大に行った長池、浪商から明治大の住友、平安から立命大の阪本この辺の選手がすぐに思い出されます。皆大活躍でした。

 日本ティーボール協会と少し関係があったのは、ロベルト・バルボン二塁手。1994年に兵庫県でのティーボール大会には、アシックスの鬼塚社長と一緒に球場に来て下さり、楽しい挨拶を頂きました。皆さん、バルボンを知っていますか。愛称はチコ、現在NHK放送の「チコちゃんに叱られる」のチコと同じ名前です。1954年阪急時代ラリー・レインズが首位打者を取るや否退団、その翌年からキューバから来たバルボンは愛される人柄で活躍しました。日本語も上手です。そのためか、オリックスでは退団後、通訳として活躍されました。

 阪急からオリックスに代わる頃は、プロ野球チームを持つのは、映画関係では東映、大映、松竹。そして、新聞社は読売、毎日、中日、産経、そして電鉄会社は、阪神、阪急、近鉄、西鉄。その様な時代に、異業種のオーナーとしてプロ野球界に参入されたオリックスの宮内義彦氏は「進取の精神」の持ち主でした。幾多の困難を乗り越え、敢然とこのチームを所有し、大事になされ、そして今日の素晴らしいチームへと導かれたのです。負けが込んでも、情熱を持ち続け、そして、昨日の中島監督との熱い握手です。当時のご苦労を少しばかり報道で知る者としては、宮内氏の昨日の喜びは如何ほどかと推察できたのです。

 阪急時代から今日のオリックスまで、多くのスター選手を輩出されました。でも、優勝はこの四半世紀できませんでした。「忍耐力」これを学べます。そうそう、この「理事長からのメッセージ」の単行本の名は「耐えて克つ」です。

 オリックス・バファローズは、正に25年間「耐えて勝つ」。「克」克服でなく、「勝」勝利にしました。 優勝! 誠におめでとうございます!!