6月8日 中国編① 陳先生の偉大なる貢献。1977年中国ソフトボール・ナショナルチームが初来日。早稲田大学安部球場で初めての試合。そのグラウンドキーパーが私
中国における日本式ティーボールは、加速度的に普及しています。物凄い勢いです。現在中国では、ティーボールの小学生の全国大会が、約10日かけて行われています。そして、日本式ティーボールを卒業した児童は、より競技性の高いスローピッチ・ソフトボールへ。さらに、野球やソフトボールへと挑戦するのです。
この日本式ティーボールとスローピッチ・ソフトボールの普及に全力投球した女性がいます。それは、我らの陳兆麗先生です。その情熱は半端ではありません。今、上海にいたかと思うと、次は北京。台湾、韓国、香港、モンゴル、時としてアメリカ、カナダ、イタリア、日本と世界中の至る所で活躍されています。
陳先生から来た最近のメールを、2通紹介します。まずは6月5日、イタリアから。内容は、「吉村先生の指導を頂き、私は今日の成長と実績ができ、心から嬉しく、感謝致します。18年前、中国という野球文化のほとんどない国にティーボールを紹介しました。驚くほどすぐに愛されました。ティーボールはいかに生涯スポーツにふさわしい運動かと理解しています。中国において、このティーボールが学校体育授業に導入されてから子供の笑顔が溢れ、体力と体質の向上に役立ちました。吉村先生の素晴らしさに脱帽します(原文のまま)」。私にとってありがたいメールを頂きました。
その1週間前の5月28日には、モンゴルへ普及活動に行かれたときの「報告書」がメールで届きました。内容を要約すると、「河内会長の存在は、凄く大きい。久保田先生と小西先生の二人の指導は、分かりやすく、受講生からの質問も丁寧に答えていた。用具はナガセケンコーのものが多い。これは河内会長からの寄付によるもの。モンゴルは、アジア連盟に加盟したいと考えています」と。
陳兆麗先生の活躍は、次回、中国編②以降において丁寧に紹介します。
ここからは、中国棒球・塁球協会、並びにナショナルチームの皆さんと私との出会い、更には、46年に及ぶ長い付き合いについて書きたいと思います。
1977年8月、中国の「ソフトボール・ナショナル・チーム」が初めて日本に来ました。最初にプレーした場所は、東京都新宿区の早稲田大学安部球場(硬式野球場)でした(現在の早稲田大学国際会議場)。その時、私は32歳で、早稲田大学体育局の助手。当時は、「写真で見るソフトボール」(成美堂出版)がベストセラーになっていて、更に、3、4社の出版社から「ソフトボール」の単行本の執筆依頼が来ていた時でした。毎日夜遅くまで書き続けていました。
大学本部から、私の体育局の研究室に突然電話があり、「この夏、中国のナショナルチームが日本に初めて来日する。そのお世話を宜しく」というもの。当時私はまだ32歳。テレビの解説は若いのでお断り。早稲田大学のOBで、高校の先生でソフトボール部の監督にお願いし、私は野球部からお借りしている安部球場のグラウンド整備を担当。その関係で、中国の選手たちと同じ目線となり、接点が多く持つことができ、結果的には、その後、とても幸せな思いをさせて頂きました。
その時の中国ナショナルチームのエースであった李念敏投手は、今もって連絡を取り合っています。ついこの間も電話をして、「李念敏さんが早稲田大学に最初の来たのは1977年だよね」と確認したところ、彼女からは、「そうです。確か8月でしたよ」という返事。その時の中国ナショナルチームの対戦相手は、東京高校選抜チーム。初来日の中国チームは、まとまりのある良いチームでした。
この年の中国チームの日本遠征が成功に終わったためか、その後、毎年のようにナショナルチームが来日しました。年々力をつけいきました。私はその都度、立場は違えど、何らかの形でそれらの遠征に協力させていただきました。中国チームの選手たちと話をしたときに最も喜ばれたのは、「ソフトボールマガジン」(ベースボールマガジン社発行)を通しての投手指導と打撃指導についてでした。その「ソフトボールマガジン」を中国に持って帰って、参考書の代わりにしてくれていたようです。
私は1989年から約7年間に約70回、「ソフトボールマガジン」において「女子トッププレイヤーのフォームの解剖」を行っていました。この連載を始めたのは、女子ソフトボールがアトランタ五輪に導入される数年前からでした。
そこでは、日本選手の投球術、打撃術だけでなく、中国やアメリカの一流選手のフォームも解説しました。中国の選手では、先述の李念敏投手や、両腕を野球の投手のように振りかぶって快速球を投げる王麗紅投手。李念敏投手と似たようなフォームで投げる謝映倍梅投手(この投手の投げ方は、当時「エイトフィギュアのスリングショット投法」と呼んでいました)。また、劉雅菊投手も印象に残っています。ウインドミル投法でダイナミックな投げ方をしていました。3人とも素晴らしい投手。日本の選手たちも、彼女たちの投法を参考にしたものでした。
一方、打者では、ナショナルチームの3番安仲欣選手。シャープな打法、アジア大会直前の日中米対抗戦では2割8分6厘で、大会では7位の成績でした。“少々のボールは打ちに行く”打者でした。そして、1番打者の張春芳選手。1990年のアジア大会では、3割7分5厘と打ちまくりました。この二人は、今尚印象に残っています。最高のモデルでした。
日中米対抗戦で、監督として来日したのは李敏寛氏でした。大阪生まれで、親日家、日本語が堪能で、日中ソフトボールの懸け橋を担っていました。私が中国に行った時も、何度かお話しさせて頂きました。立派な紳士です。その折、上記の中国選手の投法、打法の技術解説をしたことが話題に上がり、感謝もされました。当時は、嬉しいやら恐縮やらでした。
このような活動をソフトボールを通して長く行っていたからでしょうか、更に、日本式ティーボールを創作したからでしょうか?光栄にも、2009年10月から、中国教育学会“十一”科研規則“中小学”<体育与健康>課程研究の国家委員会委員を3年間務めさせて頂きました。
そして更に、2012年4月からも続けて、中国教育学会“十二・五”科研規則 体育美育新課程的学校文化特色置役実践研究の国家委員会委員を2015年3月迄務めさせて頂きました。
この労をお取りくださったのが、何を隠そう陳兆麗先生なのです。これをきっかけに中国では、国の教育学会が本腰を入れて、野球とソフトボールだけでなく、ティーボールとスローピッチ・ソフトボールの普及をしてくださったのです。物凄いことになったのでした。
続く。