5月26日「中西太選手、いつまでも心に残ります。様々な繋がり、小学1年生から70年間大ファンでした。」

 私が小学1年生の時から、プロ野球界で、最も応援し、最も愛した中西太氏が、5月11日東京都内の自宅から、天国に行かれました。高校時代から「怪童」と呼ばれ、その打球の速さは、目を見張るものがありました。小学生の時、私が中西選手をあまりにも応援するものだから、母親から「お前はなんでそんなに中西が好きなの」とよく問われました。答えは、「好きなものは、好きやねん」。

 高松一高出身の中西選手は、1951年夏の甲子園大会において、京都の平安高校に敗退、早稲田大学へ進学するかプロ野球界へ進むか、世間は注目していました。その時、私は6歳。その時からの大ファンです。高校の先輩三原修氏の勧めで彼が監督する西鉄ライオンズに入団。開幕からスタメンで起用され、その年新人王を獲得したのでした。

 中西選手が新人王に輝いた翌年、確か水戸商高から豊田泰光選手が西鉄ライオンズに入団したと記憶しています。そこで、今でも語り草となるV3の1958年、西鉄「1番高倉、2番豊田、3番中西、4番大下、5番関口、6番河野、7番仰木、8番和田、9番稲尾」、史上最強と考えられる打順の原型が誕生したのでした。控えには、投手で川崎、島原、田中。捕手には日比野、外野手では玉造、田中等がいましたね。小学生の記憶ですが、すらすらと出てきます。今、昨日の夕飯のおかずは何か忘れても、これらの記憶は鮮明です。

 小学5年生時、京都の西京極球場に西鉄ライオンズが来ました。兄に連れられて、先ず千本丸太町から市電に乗って西院の駅へ、そこで阪急に乗り換え、球場に着きました。その日は、嬉しくて、嬉しくて、勿論、その日が来るまでも。この試合を観戦するために、兄は1か月前から「西鉄ライオンズの試合を見に行かせてやるから、勉強せ!」私は「はい!」。小学生時代、この1か月間ほど集中して、勉強したことはありませんでした。

 球場に到着。私の目は、初めから試合が終わるまで、中西太選手を追いまくっていました。中西選手は、身長172センチで、大柄な体つきでした。サードでは、体が柔らかく、軽快な守備、たまりません。打撃では、大きなお尻を振りながら、そして、重いバットを軽々と、手首を十分利かせて振るのです。顔を見ると、ニコニコしておられます。私は今、77歳、その頃を思い出すと、ニコニコします。

 手首の効いた打撃故、腱鞘炎にかかり、選手生活はとても短かったです。29歳で監督兼選手となり、それからの出場回数は極端に少なくなりました。1953年には、大映林義一投手から160メートルの大ホームランを打ったことは、今尚「日本最長飛距離本塁打」として、有名です。この年、打率314、36本塁打、36盗塁で、史上最年少でトリプルスリーを達成しました。

 1956年、三原修監督の長女敏子さんと結婚。この敏子という名は、私の母と同じ字。私は、中西選手が更に好きになりました。

 西鉄「野武士軍団」で「怪童」と言われた中西太選手。ホームラン王5回、首位打者2回、打点王3回は、今尚、燦然と輝いています。当時の三塁手と言えば、長嶋茂雄選手、二人とも凄かった、大大スターです。当時南海の鶴岡一人監督が、よく言いました。「球場には銭が落ちている、拾え!」。二人はその「銭がいっぱい拾える選手」でした。引退後は、監督、コーチで活躍。中西氏は、監督というよりも打撃コーチとして、その才能を見事に発揮されました。

 私は、2011年から12年間、公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)の理事を務めました。その間、総会等で、中西太氏と出会う機会が数回ありましたが、結局、私は一度も声をかけることは出来ませんでした。サインが欲しかったのですが、声をかけることは出来ません。私にとっては、雲の上の方、地上でおしゃべりするなんて、在り得ない。いつまでも雲の上の偉大な選手。

 中西太氏の逝去を報じた「日刊スポーツ」5月19日の2面の記事に、高松一高野球部OB会・伊藤良春会長の記事が掲載されました。引用します。「中西さんは旧制高松第一中学、新制高松第一高等学校の6年間、野球に没頭された大先輩です。高松一高のみならず、日本の野球界の礎を築く大きな役割を果たしました。OB会としても誇りに思います。謹んでお悔やみ申し上げます」

 この伊藤良春会長、早稲田大学ソフトボール部の前身、ソフトボール同好会の出身。頼住道夫専務理事兼事務局長の3年後輩、名選手でした。人と人が繋がります。因みに、今、NPO法人日本ティーボール協会事務局に学生アルバイトで来ているSさんも高松一高の卒業生。

 中西太選手の大ファンが私、高松一高が平安高校に敗退、中西選手は早稲田大学へ進学か?そして、私の母の名は(敏子)、三原修監督の長女も敏子で、中西敏子さん。高松一高野球部OB会長は伊藤良春氏(早稲田大学ソフトボール同好会OB)、日本ティーボール協会学生アルバイト(早稲田大学ソフトボール部)は高松一高の卒業生。学校の繋がり、人の繋がりは、不思議なものです。

 中西太氏のご冥福をお祈りいたします。70年間応援しました。いつまでも私の心に残る、偉大な名選手でした。