1月20日「松山秀樹選手がワイアラエカントリークラブで優勝。そのゴルフ場の元支配人は大学の先輩、マイク野口さんでした。」

 1月16日(日本時間17日)アメリカハワイ州ホノルル・ワイアラエカントリークラブにおいて、松山秀樹選手が優勝しました。最終18番ホールで、首位のラッセル・ヘンリーに並び、プレーオフで松山選手はイーグルを奪い勝利。優勝賞金は約1億750万円。凄いですね。おめでとうございます。

 今から39年前の1983年、このゴルフ場で開催された「ハワイアンオープン」で青木功選手が優勝しました。その時も確か18番ホールでイーグルで勝利したのでした。当時は、ハワイのアナウンサーが、「あおき」と発音出来なくて、AはEと発音、即ち「えおき」「えおき」と呼んでしました。ついこの間のように思い出されます。

 このワイアラエカントリークラブは、私にとってはとても思い出多いところです。私が学生時代(1969,1970、1971年)住んでいたカイムキ12番通りからバイクで15分くらいの近いところにあります。ハワイ大学からでも30分か40分くらいで行けます。環境のいい海沿いの最高の場所にあります。実はこのゴルフ場の支配人が、私の友人で日系2世のマイク・ノグチさんでした。彼は、ハワイの高校を卒業した後、早稲田大学に留学しました。その関係で、私は彼には、ホノルルビジネス大学時代のみならず、1985年、1986年のハワイ大学客員教授時代にも大変お世話になりました。その時彼がしばしば私に自慢していたのは「アメリカのメジャーと言われるゴルフ場で白人以外で『支配人』になったのは、僕が初めて」と言うセリフ。いい仕事されていました。

 1985・1986年の私のハワイ大学客員教授時代は、彼はバドワイザーのライトか、クワーズライトのビールを6本ほどもって、私のファカルティーハウジング(教員宿舎)によく遊びに来られました。一緒によくビールを頂きました。その時は、3年前の青木選手のイーグルでの優勝の話。それ以外では、日本の大学の話、野球やソフトボールの話が中心でした。ノグチさんは立派な日本語をしゃべられ、日米ゴルフの架け橋をなされた方でした。

 1986年の新年、現在日本ティーボール協会専務理事の佐藤文宏先生が、ハワイの私を訪ねてこられました。それはこの年の「ハワイアンオープン」を見学するためでした。佐藤先生と一緒にギャラリーとして、このワイアラエカントリークラブのコースを回りました。その折、あの青木選手のイーグルと優勝の思い出をつまみに、美味しいビールをワイキキで飲んだのを思い出します。そんな縁もあり、先生とは、日本ティーボール協会では設立当初から今尚、ご一緒させて頂いています。

 縁は異なもの味なものですね。それがもっとあるのです。

 そのマイク・ノグチさんですが、1993年日本ティーボール協会を発足させたとき、ノグチさんには、国際委員としてご活躍を頂いています。「ティーボール入門」の初版をご覧頂けると明らかです。因みに、その時の国際委員は、9名おられます。その中で日本人は5名、中国人は1名、そしてアメリカ人は3名です。その3名は、一人がスコットダグラス先生(現在早稲田大学教授)、そしてレス・ムラカミ氏(ハワイ大学元野球部監督・現在のハワイ大学野球場はレスムラカミスタジアムとなっています)。それにこのマイク・ノグチさんです。凄いでしょう。

 因みに私のハワイの恩人のマサオコイケ先生は、顧問。コイケ先生とノグチさんはとても仲の良い友人同士でした。

 松山秀樹選手の快挙で、皆さんに、ワイアラエカントリークラブの元支配人で大学の先輩マイク・ノグチ(初代日本ティーボール協会国際委員)を紹介しました。