1月27日「門田博光選手は、偉大な選手でした。この話には続きがあります。明日話しましょう!」

 金曜日の午前中は、早稲田大学ソフトボール部の学生が事務所にアルバイトに来る日です。今日の彼女たちの仕事は、①年賀状と寒中見舞いの整理、②3月の日本ティーボールセミナーの準備の手伝い、③データー整理等です。彼女たちは、一つ一つの仕事を、誠実に手際よく片付けてくれます。大変助かります。ありがたいです。

 バイト中、私はさりげなく「君たち門田博光選手を知ってる?」と質問。「最近亡くなられた方で、それで名前を知りました」という返事。私は、ええ?て感じでした。女子ソフトボール選手は、そのほとんどがプロ野球ファンです。それなのに門田博光選手を知らないとは?。

 ここで門田博光選手を簡単に紹介します。日本野球界では、彼は、稀有のホームランバター。歴代本塁打は567本。これは、王貞治選手が868本で第1位、第2位が野村克也選手の657本。3位が彼です。如何に凄いかというと次の選手たちの名を見れば歴然です。4位は山本浩二選手が536本、5位は清原和博選手の525本、6位が落合博満選手の510本。

 更に、打点でも王選手、野村選手に次いで3位。4位が張本選手、5位が落合選手なのです。これを見ても門田選手が如何に凄い選手だったかが分かります。1988年には40歳で2冠王。その時の本塁打数は44本、打点は125でした。「中年の星」「不惑の大砲」とまで言われたほどでした。2006年に殿堂入り。

 昭和24年生まれ、私の弟と同い年、いわゆる「丑年」です。そのためかおっとりした雰囲気をいつも醸し出していました。体系は、身長170センチで、ちょっとお腹が出ている感じ、小柄ながら実にパワフルなスイングをする選手でした。当時はニットのユニフォームが人気だったので、体にフィットします。体形が分かりやすかったです。

 門田選手は、フルスイングを貫いた選手です。イメージ的には今のオリックス吉田正尚選手のようなタイプか。南海ホークス時代は、監督兼4番打者の野村選手とクリーンナップを打ったこともあります。年は10歳以上離れて、二人は考え方も随分違うとよく聞いていましたが、その打撃スタイルも正反対でした。

 野村選手はバットをほんの少しグリップから離して握り、投球されたボールをジャストミートするぞといったタイプ。中距離ヒッターに多いタイプなのに長距離ヒッターでした。門田選手は、その正反対、左打者で右手をグリップエンドに触れ、バットを出来るだけ長く使う長距離ヒッター。門田選手は「僕がヒット狙うと4割は打てる」と豪語していたのは有名な話です。正に和製ベーブルースのようでした。

 1970年から88年迄在籍したのは、南海ホークス。その後、阪急に移籍、2年間プレーした後、古巣のダイエーホークス(元の南海)に戻って2年間プレー、44歳で引退しました。同時期に活躍した1984年三冠王に輝いたライバル阪急の強打者ブーマー選手がアメリカのジョージア州からコメントを寄越しています。1月26日の日刊スポーツによると、ブーマーは「あんな強い打球を飛ばす打者は初めて見ました。私が一塁を守っていて、彼が走者にでると『頼むから私に打球を当てないでくれよ。あなたの打席だけ、外野を守ろうか』なんて冗談も言いましたよ」と。

 門田選手のスイングスピードは桁外れでした。そのためかどうかは定かではありませんが、1979年には、アキレス腱断裂。その後カムバックされ、80年には41本塁打、81年には44本塁打、83年にも40本塁打と打ちまくったのでした。

 今、柳田選手や山本選手に代表されるように、フルスイング(プルヒッター・引っ張り打法)する、そして芯に当たれば本塁打、少々当たりそこないでも、ヒットになる。このスタイルが全盛のように思われます。しかし、門田選手の頃は、野村選手や張本選手、落合選手に代表されるように、投球を真芯で打つスプレーヒッティング(広角打法)が主流でした。

 野球やソフトボールは、どんな理論よりも、その選手が打ちまくれば全てOKです。良く打った選手の打法が研究されます。そう考えると、広角打法が基本とされていた時に、当時の王選手同様、この門田選手が「引っ張り打法」に徹していたこと。これ凄いことです。今活躍している足を高く上げて引っ張る打法は「王選手」と「門田選手」がその先駆者だったといっても良いのではないでしょうか。

 稀有のホームランバッター門田博光選手を思い出すと、以上のようなことがすぐに脳裏をよぎりました。午前中にアルバイトで貢献してくれた女子ソフトボール選手、これで門田選手の偉大さが分かってくれたでしょうか。

 明日も、この話の続きをしましょう。ここでは書ききれません、それほど偉大な選手でした。門田博光選手は。