11月2日「アントニオ猪木を偲ぶ。松浪先生、村上先生の思い。私は力道山、ルーテーズ、シャープ兄弟も思い出します。」
10月30日(日)の朝日新聞「朝日歌壇」に、日本協会評議員で元高校校長村上敏之先生の「歌」が、またまた選出されました。以下に紹介します。
「カラーテレビがついにわが家に来た夜に出たぞ猪木のコブラツイスト」
この歌は、佐佐木幸綱氏と永田和宏氏の両氏から選ばれました。したがって、同じ歌が2か所に掲載されています。これは凄いことです。まだ、この歌を私が見た、読んだということは、村上先生に伝えていません。この「理事長からのメッセージ」を書き終えた後、掲載の許可を得るために先生に電話します。
先週、学校法人日本体育大学理事長松浪健四郎先生から「学位論文」と「獅子の会」の会報、更には今連載されている「新聞のコピー」等をお届け頂きました。尊敬する松浪先生は、日本大学大学院で私の先輩です。文部科学副大臣もお務めになられました。日本協会では「顧問」をお引き受けくださっています。その関係で「理事長からのメッセージ」(中巻)「輝く明日に向かって」と「理事長からのメッセージ」(下巻)の「目次」をお送りしたら、その「倍返し」です。先生からのお礼状の中には、アントニオ猪木が書いた西郷隆盛の書のコピーが同封されていました。
先月10月1日心不全のため79歳で亡くなられたアントニオ猪木さん。村上先生も松浪先生も、その死を悲しんでおられます。とても偉大なプロレスラー、そして特徴ある政治家でした。そこで、今日の「理事長からのメッセージ」は、私も若かりし頃は大のプロレスファン。小・中学校での「プロレス」の思い出をここに紹介します。
私の小・中学校時代のプロレスの思い出は、全てに力道山からです。空手チョップがいつ出るか。ワクワクしながら、近くの京都の中村公園の街頭テレビを見に行ったものです。家庭は夜の外出は禁止です。お米も配給米。米屋さんに米穀通帳をもって買う時代です。夜はまだまだ危険がいっぱいの頃、明治生まれの厳しい父の目を逃れて、バットを持っての外出。父には野球の素振りの特訓と言って公園まで走り、街頭テレビのプロレス中継を見に行くのです。古き良き時代です。
街頭テレビは、我らの英雄・力道山とアメリカの鉄人ルーテーズの対決。
ルーテーズの後は、デストロイヤー、ターロック・シン、シャープ兄弟。力道山は続々と、世界の有名プロレスラーを日本に呼んで来ます。大変な実力者。その対決をジャッジするレフリーは、沖シキナさん。彼は確か日系二世だと記憶しています。ユセフ・トルコ氏というレフリーもいたような・・・。日本人プロレスラーでは、力道山以外では、柔道界から遠藤幸喜、吉村道明、相撲界から元横綱東富士や豊登らがいたと思います。
柔道界から「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」天才木村政彦氏と力道山が一度だけの対決。柔道が勝つか相撲が勝つか。二人の死闘もよく覚えています。その後、読売ジャイアンツの長身投手ジャイアント馬場が、力道山によってプロレス界へ。アントニオ猪木がブラジルからスカウトされた同時期だと思います。女子プロレスもこの頃、スタートしました。そのナンバーワン実力者の名前は「力道子(りきみちこ)」だったはずです。この辺までが、私の小・中学生、65年前後前の記憶です。間違いがあればゴメンナサイ!
1960年、私がちょうど平安高校に進学する頃、即ち、朝から夜遅くまで野球・野球と野球漬けになっている時、アントニオ猪木は日本にやって来ました。この頃、村上先生はカラーテレビでコブラツイストを観ていたのか。松浪先生は、アメリカ留学時代は、確かイースト・ミシガン大学でアマチュア・レスリングで全米チャンピオンになられたはずです。だから、猪木氏の直筆の「書」をお持ちなのですね。私は残念ながらこの頃のアントニオ猪木の活躍は、ほとんどが新聞で知るのみでした。テレビを見る時間はありませんでした。勉強ではなく、野球・野球・野球でしたから。
来月12月28日は、アントニオ猪木の追悼大会が、東京・両国国技館で開催されるとのことです。これは見ものです。
当日出来るなら、近所の公園の街頭テレビで、バットを持ちながら、65年前に戻ったつもりで、アントニオ猪木、力道山、ルーテーズ、デストロイヤー等を思いだし、素振りしないで、観戦したーい!
天国にいるオヤジもこの時だけは喜んで外出の許可をくれるでしょう。
アントニオ猪木さん! 数々の思い出をありがとうございました。