2月22日「安田さん天国へ 残念です。」

 「たぶちくん、やすだくん、」(いしいひさいち)の漫画でおなじみの安田猛さんがご逝去されました。早すぎます。一時病気になられ、その後回復されて、母校小倉高校野球部のコーチをなされていると聞いていたのですが、残念です。彼はあの王さんキラーとして有名で、通算126打数32安打2割5分台に抑えておられるのです。横手からの独特な投げ方は当時「ペンギン投法」とも呼ばれ、歩き方もペンギンに似ていたという人もおられました。頭脳明晰で、優しい方でした。

 彼と私の最初の出会いは、早稲田の学生時代。私が4年生、彼が3年生の晩秋、場所は野球部のグラウンド安部球場。私はソフトボール部の主将を終え引退、翌年5月からのハワイ留学を備えて、野球部のグラウンドで練習に参加させていただいていた時でした。彼が私の隣で野球のマウンドから、あの横手投げで140キロ前後のボールを投げ、私はソフトボールの投捕間でウインドミルで120キロ前後のボールを投げて競争したのが最初の出会いでした。彼の第一声、「吉村さんボール速いですね」。私はとてもいい気分、彼はおだてるのがうまいです。でも本心だったかもしれません。当時彼は、ウインドミル投法を見るのは初めてだと言っていましたから。私は、気分がいいので彼とボールをチェンジして、私は硬球のボールで14.02から「捕手により速いボールが行きます。危ないですよ。気を付けてください」と断ってまず8分の力で投げました。勿論、捕手はびっくりして、正確な捕球はできません。安田さんも更に驚かれ、より私に近づいてこられました。私は、気分良かったのをよく覚えています。その5か月後から私はハワイに「野球・ソフトボールの日本からの招待選手」として留学が始まったのです。

 それから、2年後、彼と私はなんとハワイで再開。日本の都市対抗で彼が所属する大昭和製紙が優勝(彼は橋戸賞を獲得)して、そのご褒美にオーストラリアとハワイに親善試合旅行にきたのです。まだ1ドルが360円の時です。私がハワイに留学中まずスポーツ系の遠征団がハワイに来るなんてリトルリーグのチーム以外考えもつかない時でした。団長は斎藤さん。あの斎藤了英さんのご長男。親善試合の対戦相手は、我々日系野球団のあさひチーム、プレゼンテーターはビル西田さん(東映-巨人)。コーディネーターは、コイケ・マサオ先生(ハワイ日系野球・ソフトボール連盟会長)。私のハワイのお父さん。

 試合のない日に、大学の同級生であった捕手の長倉君(静岡高)、遊撃手の角田君(天理高)、それに一学年下の安田さんと一塁手の小田さん(静岡高-ヤクルトー南海)この4人をほんの少しハワイ観光のお世話をさせていただきました。いい思い出です。帰国してからも、彼らとはその話で花が咲きます。

 更に、私は、世界の日系野球・ソフトボール団体の関係で、ブラジルの日系野球・ソフトボール協会からの要請も受け、教え子や私自身もそのナショナルチームを12年間に亘り指導させていただきました。そこにも安田さんの大きな存在があるのです。それは、ブラジルには「ヤクルト・ベースボール・アカデミー」があり野球場が4面ほどあります。そこで、私がナショナルチームを指導していた時、安田さんの名前がよく出ました。当時は、安田さんはヤクルトの編成部長をなされていてよくブラジルに行かれていたようでした。

 早稲田、ハワイ、ブラジル、そして日本、いろいろな場所で安田さんからは多くの思い出を頂きました。勿論、この日本式ティーボールもよき理解者の一人でした。

 確か、彼の結婚式は、12月6日と記憶しています。それは正に、私の誕生日でもあります。

 今日は、早稲田大学の一年後輩安田猛さんとの思い出を書いてみました。ご冥福をお祈りいたします。