5月18日 「英雄・久保建英ゴール」。同性の久保市三郎(慶応義塾大学理財科第一回卒業生総代)は私の祖父です。

 久保建英(スペイン、ヘタフェ)が今季リーグ戦で初ゴール。チームの1部残留を決定させました。スペイン紙アスは久保を「英雄・1年を通じて姿を消していたが、チームを2部降格から救うヒーローになった」と。

 久保、私にとってはいい名前です。実は私の父の名前は、もともと久保半(なかば)、祖父は久保市三郎、伯父は久保九助、伯母は久保秀子、従兄は久保京一、そうです。私の父方の姓は皆久保です。父半は久保家の次男で栃木県真岡市寺内から京都西陣の吉村に養子に入ったのです。

 久保選手の活躍は、とても嬉しいです。いつも「久保」つながりで応援してます。

 今日は、私の父方の祖父と祖母を少し紹介をします。

この二人の結婚式の仲人さんは、福沢諭吉先生です。なぜ、福沢先生かというと、祖父は福沢先生の一番弟子だった。また、この結婚は福沢先生のある戦略で、先生の薦めで祖父は久保家の養子に入ったからです。

 祖父は慶応義塾大学理財科第一回卒業生総代でした。これは慶応義塾大学125周年記念誌にその卒業生総代の証書が掲載されています。この記念誌は、30年ほど前、慶応義塾大医学部教授で且つ野球部部長の斎藤先生が私に直接送ってきてくださったのです。

 これまた、野球人脈でこの記念誌をゲットしたのでした。

 祖父の卒業当時の姓は小沢。後に久保家に養子として入り久保の家督を継ぐのでした。

 祖父が慶応義塾大学理財科に在学中の指導教授は、アメリカのハーバード大学から派遣された先生でその講義は全て英語でした。そのため、祖父は慶応義塾大学時代その教えを正しく理解するために、英語を徹底的に学んだと私は父から聞いていました。私が早稲田大学を卒業後アメリカハワイに留学できたのもその久保の家系からの伝統的な考えと教えがあったからです。

 祖父は、1907年から1911年、1932年から1939年迄、の二期貴族院議員を務めたり、久下田銀行、真岡銀行を創設、その後、栃木県農工銀行頭取、下野新聞会長、日光輪王寺檀家総代等を務めました。1869年(慶応3年)生まれで、1956年私が小学校5年生の時亡くなりました。

 私はそのような訳で、今でも真岡市寺内にある約400年近く続く久保家代々のお墓には年1,2回お参りに行きます。しかし、これもこのコロナの関係でこの1年半行けていません。ご先祖に大変ご無礼をしています。早くワクチンを2度打って、栃木県真岡市寺内の久保家の墓前と京都西陣にある吉村家の墓前にお参りに行きたいと考えています。

 今日は、昨日久保建英さん(19)が、スペインで「英雄」になったという記事を見て、父方久保家のことを書き、またまた、自己紹介・家族紹介をしてしまいました。

 久保建英さんがサッカーで「大活躍」。久保建英選手と関係ない「久保」の子孫である私は、サッカーに負けたくないと思い野球とソフトボールの「スターターゲーム・ティーボール」で「大活躍」と行きたいですね。

 まだまだ19歳やサッカーには負けないぞー!