5月18日「台湾編① 私は台湾(中華民国)紙幣伍百円をいつも財布の中に入れています。リトルリーグ(学童野球・ソフトボールを含む)が世界に普及することを願って」

 台湾と言えば、「リトルリーグが盛んで、強い」。これが世界の野球・ソフトボール関係者の間では常識となっています。事実、台湾(中華民国)の中央銀行が発行する伍百円(注:台湾では百に人偏が付きます)の絵柄は、リトルリーグの11人の選手がそれぞれ帽子を上空に高々と投げ上げているものです。多分、リトルリーグの世界大会で優勝した時のものでしょう。私はこの紙幣をいつも財布に入れています。勿論日本では使用できませんが、元気な野球少年が好きだからこのようにしているのです。また、リトルリーグ(学童野球・ソフトボールを含む)が世界に広がってほしいと願っているからでもあります。

 私が、台湾のリトルリーグを強く意識したのは、1969年ハワイで野球をプレーしていた時です。この年、私は、A.J.A(日系野球リーグ)のワイアラエ(Waialae)チームの3番ファーストでした。このチームはその年のチャンピオンになり、当時「HAWAII HERALD」新聞に、写真入りで大きく報道されました。その優勝パーティーの時、リトルリーグの話が出て、日本や台湾が強いということで盛り上がりました。当時から台湾リトルリーグの選手は体格も大きく、強靭な体を持っていました。

 そうしたところ、翌年、日本の調布のリトルリーガーたちが、ニューヨークで開催される世界大会の前に、ハワイに立ち寄ったのでした。このチームのお世話をしたのが、先述のA.J.A野球リーグの役員とホームステイを引き受けた家族の人達。このリーグの会長は、私の人生の恩人マサオ・コイケ先生でした。私も可愛いリトルリーガーたちの通訳等でお世話をしました。この年は、私が所属するワイアラエチームに、南海ホークスで活躍したカールトン半田さんがショートストップ(遊撃手)として入団。中日のコーチを終えられての帰国でした。

 カールトン半田さんと私は、二遊間、所謂キーストンコンビで頑張りました。半田さんは40歳を過ぎておられましたが、その動きは、さすが南海ホークス、百万ドルの内野陣(ファースト寺田、セカンド岡本、サード穴吹、ショート蔭山)の一角を務められただけのことはありました。彼とは、リトルリーグの話だけでなく、南海ホークスでのこと、中日ドラゴンズでコーチを務められた時のこと等、沢山の野球の話をしました。多くのことを学びました。

 1971年8月、私はハワイ(アメリカ)・ソフトボール・オールスターの一員として、帰国。東京、岐阜、和歌山、京都、広島で、日米親善(対抗戦)ソフトボール試合でプレーしました。結果は、5試合全てにおいて、ハワイ(アメリカ)オールスターの圧勝。監督のレス・ムラカミ曰く、「100回試合をして負けるとしたら、広島オールスターチームぐらい」。私はムッとしたことを今でも記憶しています。それほど、ハワイ(アメリカ)は強かったのです。

 この遠征が終了して、数か月した晩秋の頃、私の京都の自宅に、早稲田大学教育学部の同級生であった南海ホークスの市原スカウトから連絡が入りました。アメリカ野球について最新の情報を知りたい、私に会いたいというのです。

 早速、京都で会い、用件を聞くと、実はアメリカの優れたプロ野球選手を獲得したい。今、南海ホークスでは、予算はこれだけ、この金額しか出せない。メジャーの選手を取るのは難しい、3Aか2Aのリーグで活躍する、日本向きの選手を紹介してくれないかというものでした。その時の私の返事は以下のようなもの。

 「一度、台湾のリトルリーグ経験者を見てみたら?素晴らしい選手が多いよ。実は、今年、メジャーリーグのシカゴ・カブスは、台湾のリトルリーガー上がりを2名スカウトしたよ。南海ホークスが、アメリカ人選手に出せる金額の半分ぐらいでも、彼らは日本行きに、きっと興味を持ちますよ」、と。

 市原君は、真剣に考えた上で、上層部と相談したのでしょう。数か月後、結論が出ました。台湾のリトルリーガー、日本向きの選手として来たのが、李選手と高選手でした。

 そんな経験をしていたものですから、私は、この二人の日本における活動と成績は、プロ野球選手時代も引退後もいつもチェックしていました。最近聞く話では、この二人は、日本と台湾の野球の懸け橋を務めているとのこと、嬉しい限りです。

 台湾、野球・ソフトボール、これを考える時はいつも50年ほど前のことを思い出します。その経験から、私は、お守り代わりに、台湾(中華民国)紙幣伍百円を財布にいつも入れているのです。世界中に野球が広がれば素晴らしいと思っているからです。