9月1日「仙台育英OB+山口県早鞆高校の大越基先生は、日本式ティーボールを創作している時一緒にトライ!」

 第104回全国高校野球選手権大会は宮城県代表仙台育英高校の優勝で幕を閉じました。このコロナ禍でも甲子園では連日熱戦が繰り広げられました。優勝戦は、その仙台育英に対して山口県代表下関国際高校が戦いました。そのためか、両県にゆかりのある仙台育英OBで現在山口県にある早鞆高校の教諭で監督を務めている「大越基」先生が、俄然脚光を浴びました。8月22日大会休養日の朝日新聞の野球記事は「大越基さん」「エール 東北人+山口の監督として」でした。

 大越基先生が高校生だった33年前、第71回大会では、仙台育英のエースとして準優勝。準々決勝では選抜で敗れた上宮高校(大阪)を、準決勝では尽誠学園(香川)を破っての決勝進出、決勝では、東東京都代表帝京高校との対決、吉岡雄二投手(卒業後巨人軍に在籍)との投げ合いは、高校球史に残る名勝負。延長10回表に2点を取られて敗退でしたが、見事な準優勝でした。

 高校卒業後は、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。その春のリーグ戦は1年生ながら登板、彼の活躍で早稲田大学は7年半ぶりの優勝を飾りました。1990年6月4日(月)の早慶戦は、1勝1敗でいずれの大学が勝利しても優勝という試合。先発の4年生市島君が力投、リリーフの1年生大越君が好救援で6対3で早稲田大学野球部が勝利したのです。「強い早稲田が返ってきた」と新聞やTVで報道されたのでした。

 ところが、その後、大越君は一身上の理由で野球部を退部しました。そこから、またまたマスコミが書きました。「名門ピンチ」「尾を引く“大越ショック”」それらの報道を受け、私は1991年4月号において早稲田大学人間科学部教授という立場で週刊ベースボール(ベースボールマガジン社発行)に「わが愛する早稲田大学野球部へのエール―大越ショックに思う―」と題して、4ページに渡って野球部並びに退部した大越君に対してエールを送りました。

 そのような関係もあり、大越君は1991年の4月からは私の研究室に来たり、授業を履修するようになりました。スポーツ科学科で受け持っていた「ソフトボール」のクラスにも受講生として参加。一般学生と一緒にソフトボールを熱心にプレーしました。その頃の私は、野球の底辺拡大のためには、スローピッチのソフトボールを普及するだけでは限界があると考え、野球やソフトボールを更に簡易化する現在の日本式(吉村式)ティーボールの考案に向けて試行錯誤していたのです。

 1997年1月、大学から「日本式ティーボールの研究」に対して研究費を頂きティーボールの書籍を4冊発刊しました。その中に、「写真で見る日本ティーボール協会3年の歩み ―ホップ・ステップ・ジャンプ―」という書籍があります。文字通り1993年11月22日(日本ティーボール協会発足)から3年間に撮った写真を軸にそれを解説。加えて、ティーボール協会がスタートするまでの14年間の実践と研究をもまとめたものでした。

 その冊子の101ページに、大越君がソフトボールのバットでソフトボールを力強く打っている「日本式ティーボール」の写真があります。そこには、1991年6月26日早稲田大学体育実技にて、という説明をしています。この写真は日本ティーボール協会創設する2年半前のものです。この時のバッティングティーは丸型でなく、本塁プレート型。その設置する場所は、本塁プレートの真上。加えて、この時はまだ、バッターズサークルは誕生していません。ソフトボールのバッターボックスのままでプレーしています。まだまだアメリカのティーボールのスタイルを色濃く残していました。

 以下にその写真を貼り付けます。ご覧ください。

以上、仙台育英高校が全国制覇した機会に、同校出身、元ダイエー(現ソフトバンクホークス)の大越基君のプレーも、日本式ティーボールを創作する過程で参考にしたことを紹介しました。

 改めまして、仙台育英高校の全国制覇、誠におめでとうございました。優勝後の須江監督の「高校生活の密」発言はとても印象に残りました。見事なスピーチでした。感動しました。ありがとうございました。