8月18日 人生の大恩人(ハワイ野球・ソフトボールリーダー)マサオ・コイケ先生と私(その1)。その出会いを紹介します

 7月19日は、阪神タイガース元監督の吉田義男さん。8月に入ってから、8日はハワイ島、ダニエル・イノウエ上院議員。11日と18日は、マウイ島の「山火事」でチャーリー・イワモトさん。この3人に共通するのは、私の人生の恩人であるマサオ・コイケ先生(以下、コイケ先生)の存在があります。

 コイケ先生と私の最初の出会いは、私が1968年に、京都の明徳商業高校ソフトボールチームのコーチとしてハワイに遠征した時でした。しかし、実はその6年前の1962年に、私は平安高校の2年生だったのですが、野球の練習をサボって、京都の西ノ京グラウンドへ、ハワイのA.J.Aソフトボールチームと紫クラブの試合を観に行ったことがありました。その時のハワイチームの団長が、後で知ったのですがコイケ先生。アメリカの男子のソフトボールは凄いなあと再認識した時でした。

 私がアメリカの男子ソフトボールの凄さを最初に知ったのは、1956年、小学校5年生の時でした。私の家の隣が京都の北部方面警ら隊のグラウンドで、アメリカからのMP(ミリタリー・ポリス)が、腕をぐるぐる回しながら、ウインドミル投法で物凄いボールを下手投げで投げるのでした。「凄い!」というのが、私のアメリカ男子ソフトボールを初めて観た第一印象でした。それから、京都西陣地区のソフトボール大会という大会は全てに参加。それらは、体育振興会主催、少年補導委員会主催、青年団主催のソフトボール大会でした。

 小学校の正課体育でも、3年生からクラス対抗戦、6年生まで続きました。中学校に上がっても同様に、学年ごとにクラス対抗戦がありました。正課授業でも、課外活動でも、地域でも、職場でも、レクリエーション大会と言えば、この頃は、全て「ソフトボール大会」。ですから、高校生になっても、ハワイからソフトボールチームが来るという情報を得ると、平安高校の野球部の練習をサボってでも、この国際試合を観に行ったのでした。

 私が早稲田大学4年生の5月の連休に、このハワイの男子チームが来日しました。東京では、世田谷の日本体育大学のグラウンドで東京男子大学生選抜と試合が行われました。私も選抜され、世田谷のグラウンドへ行きました。その試合の前日、ハワイの団長さんの父親が他界され、急遽ハワイに帰国されたという情報が入ってきました。この団長が、これも後で分かったのですが、コイケ先生だったのです。

 その4か月後、1968年8月、上記の高校のコーチとして、ハワイに行くことになったのでした。そのようなソフトボール経験があり、ハワイでのコイケ先生と私の会話は、一気に深まったのでした。早稲田大学卒業後、アメリカへ留学したいと考える私。受け入れてもよいと、考えてくださったコイケ先生。そのハワイ遠征中に留学の話が決まったのでした。それから、コイケ先生と私の文通が始まりました。先生が95歳で他界されるまで50年間、500通を超える先生からの手紙があります。これらは皆、私の宝物でした。

 1969年3月末に、私は早稲田大学を卒業。その1か月半後の5月の半ばに、コイケ先生は私を迎えに、ハワイから日本に来てくださり、コイケ先生は帰国のために、私は渡米・留学のために、同じ飛行機に乗ったのでした。それがコイケ先生と私の深い関係の始まりでした。それから2年半、私が学校へ行く時は、朝自宅のボロアパートまで来てピックアップ。そして、通学するビジネス・カレッジの近くまで送ってくれました。ソフトボールの夜の試合や、日曜日の野球やソフトボールの試合の送迎でもお世話になりました。コイケ先生の子供のようにご指導を頂きました。

 週末は、コイケ先生のお庭の掃除、カー・ワッシュ(洗車)等の手伝い。その後は、日本映画の鑑賞会、寅さんの映画を鑑賞後は、夕食を一緒に頂きました。何から何までお世話になりました。人生の大恩人です。

 そのような関係でしたので、日本からコイケ先生を訪ねて来られる政治家、経済界の大物、プロ野球の選手たち。高校、大学のアマチュア野球関係者そのほとんどを、コイケ先生は、日系米人野球連盟会長、日系米人ソフトボール連盟会長、更には、本職のグレート・ハワイアン・ファイナンシャル・コーポレーションの副社長という立場で、連日のように、ホノルル国際空港に送迎、会食、献身的にお世話されたのでした。

 私は、土・日で野球やソフトボールの試合がない時はいつもご一緒させて頂きました。コイケ先生の大きな車の助手席は私の指定席。このためか、当時の私の人脈はめちゃくちゃ広がったのでした。

 コイケ先生のお父上は広島出身で、日本人学校の教師として移民、長年校長先生をお勤めになられた関係上、お父上もコイケ先生同様、ダニエル・イノウエ上院議員、スパーク・マツナガ下院議員、ジョージ・アリヨシハワイ州知事等と親しかったのでした。そのため、私はその先生方にも可愛がって頂きました。何から何まで、これら全てコイケ先生のお陰でした。

 コイケ先生と私はこのような関係でしたので、1993年11月23日、「日本ティーボール協会」をスタートさせた時、水野正人ミズノ社長、長瀬二郎ナガセケンコー社長、前田祐吉慶応大学野球部監督、中村隆俊戸田中央総合病院会長らと共に、コイケ先生には、この協会の顧問としてご協力頂くことになったのでした。

 1976年5月、ベストセラーにもなった「写真で見るソフトボール」(吉村正著、成美堂出版発行)の推薦文は、コイケ先生にお願いしました。次回はその内容を紹介します。乞うご期待!