4月26日「平安高校の阪本敏三先輩が天国へ。勝手に熱烈に応援していました。ありがとうございました」

 私の平安高校の2年先輩、元阪急ブレーブスの阪本敏三先輩が、4月22日天国に旅たれました。阪本先輩は、京都伏見の酒屋の息子さん。藤森中学出身。高校時代は、深草の駅から京阪電車で京阪七条へ、そこで市電に乗り換え平安高校のある七条大宮へ。阪本先輩は俊足で好守、そして何よりもミートが上手な好打者でした。私が平安高校に入学する直前の春の選抜大会準決勝では、柴田勲投手、村上雅則投手がいた法政二高に負けましたが、阪本先輩は柴田投手から4打数4安打。

 卒業後は、立命館大学に進学、関西6大学リーグでは3度の優勝。7季連続盗塁王でした。大学卒業時には、東映フライヤーズからドラフト5位で指名を受けられましたが、河合楽器に就職、そして都市対抗では、遊撃手、5番打者として活躍されました。その間、私はいつも先輩の活躍をチェックし、応援していました。

 1966年阪急ブレーブスに入団されてからは、1967年、当時の西本監督に見いだされ、新人ながら2番遊撃手として活躍。その年は打率.272、本塁打9。日本シリーズでは巨人相手に全6試合とも先発出場、第4戦ではスリーラン本塁打を含む、3安打4打点と新人離れした活躍をされました。その後、1971年まで4年連続ベストナイン。1968年から1972年まで5回連続オールスターに出場されました。その間の活躍は皆さんご存知の通りです。

 1971年の冬、東映の種茂雅之捕手と大橋譲遊撃手と阪急の岡村浩二捕手と阪本敏三先輩が世紀の大トレード。このときのエピソードは、日本ティーボール協会で多大な貢献をされました種茂元常務理事から詳しく聞いていました。

 その後は、1972年東映―1973年日拓―1974年日本ハム(同一チーム)、1976年近鉄、1979年南海、1980年からはコーチ兼任。1981年開幕直前に現役を引退されました。

 私はこの時代、朝起きるとまず最初に、阪本先輩が昨日の試合でヒットを打ったかどうか、盗塁は?そのチェックが終わると、同じく平安高校の1年後輩衣笠祥雄さんの試合結果を観るのが一番の楽しみでした。高校で一緒に汗を掻いた先輩・後輩の活躍が最も気になったものでした。

 先程、日本ティーボール協会評議員の平安高校の宮階先輩と山崎君の二人に、阪本先輩の件で電話をしました。宮階先輩は高校時代は二塁手、この阪本先輩と二遊間、キーストンコンビを組んだ同級生。甲子園でも小柄ながら長打を連発した名選手、卒業後は明治大学に進学、そこでもいぶし銀の活躍をされました。山崎君は私と同級生、卒業後は法政に進学、彼は野球博士、野球をよく知っています。大学でも活躍されました。この二人と高校時代の昔話に花が咲きました。山崎君とはまだまだ話の続きがしたくて、明後日の28日、約3年振りに戸田公園駅で会うことにしました。旧友・球友とは良いものですね。

 彼らとは、60年以上前のこともついこの間のことのように話せます。

 再び、阪本先輩の話です。今から約25年前、大阪藤井寺球場で「大阪オープンティーボール大会」を開催しました。その時、阪本先輩は近鉄のフロントに所属され、大学の同級生市原稔(元南海では選手・阪神でヘッドコーチ・近鉄でスカウト部長や渉外部長)君と一緒になって、この大会を援助してくださいました。参加した子ども達は大喜び。阪本先輩にはとても感謝しています。因みに、その時の参加選手へのバッティング指導は、元近鉄の早稲田大学OBの水口選手でした。

 阪本先輩と私とのお付き合いは、4月入学から夏の甲子園が終わる8月までの5ヵ月間だけでしたが、同じ野球部員であったこと、とても光栄に思っています。また、その5ヵ月だけのお付き合いにもかかわらず、30年後に近鉄の本拠地である、藤井寺球場を優先的にお貸しいただいたこと、本当に感謝しかありません。

 阪本敏三先輩! 勝手に熱烈に応援させて頂きました。楽しかったです。これからも、天国から日本ティーボール協会の今後の発展を見守ってください。ご指導頂きありがとうございました。