7月16日「田中優子前法政大学総長の記事 私の野球の恩人、友人、同志たち、大好きです」

 朝日新聞朝刊の文化面、「語る」ー人生の贈りものー この度は、田中優子法政大学名誉教授・前総長の登場。毎日楽しく読んでいました。今日が最終回。もう終わりか。残念と思った人は、多いのではないでしょうか。私は田中先生の業績、功績、社会貢献、実力等について、分野は違いますが、同じ大学の仕事をしていたので、素晴らしいことはよく知っていました。

 もう一つ先生の魅力は、着物が似合うことです。これを書かせてください。私の実家は聚楽第の跡地の西陣の一角で、江戸時代の中期に立った家。それを守ってきたのが家付きの母。母の着物の以外の服装は、見たことがありません。母はほとんど家の外に出ないで、家を守ることに徹してました。その母が外に行く時、「ただし!」私のこと。「帯をギュウト強く締めて、あんたは力だけはあるんやから」。着物をしっかり着るのは大変なんです。今、西陣の実家から室町に嫁いだ姉が毎日のように着物を着ています。親子は似るのなのか、それとも、西陣、室町ということで着物は着なければならない土地柄なのか。私は西陣育ちですが、野球のユニフォームばかり着ていました。

 さて、田中先生の法政大学、今、特に輝いています。菅総理大臣、侍ジャパンの稲葉監督、その連盟の山中会長、彼ら全て法政大学出身です。法政大学のスクールカラーは、紺です。これ我が母校平安高校と同じ。そんなこともあって、平安から法政に行く先輩、同級生、後輩は数多くいました。忘れられないのは、伊藤先輩、彼は法政の野球部時代4番が撫養高校から来た長池選手、5番が私の2年上の伊藤先輩、春の東京六大学が終わり夏に伊藤先輩は京都に帰り、私たち後輩へ暖かいご指導。今でも鮮明に覚えています。

 吉村!ええバッティングしてるやないかー とお褒めの言葉。嬉しかったですね。当時の高校野球というのは、手で殴る、足で蹴る、バットで叩く、どつく、正座で説教、めちゃくちゃ走らされる、これが常識の時代でした。ええ!褒めてもらっていいの、て感じでした。今でも京都に帰ると、「錦市場」で家業を継いだ先輩とこの話になります。最高の先輩でした。同級生に山崎君がいました。彼も法政に進学。特別進学クラスにいて、賢く、野球が上手で、何よりもフレンドリー。今、この協会の評議員を務めてくれています。家が戸田市にあるので、私が戸田中央総合病院に行ったときは必ず彼に電話して、駅中の喫茶店で昔話をして帰ります。私にとっていい先輩、いい同級生がいるのが法政大学です。私がハワイにいるときに、野球部長の藤田先生がお越しになり、ハワイの日系野球協会会長のマサオ・コイケ氏と一緒にお会いし、当時の法政大学や野球の話をしたのを記憶しています。素晴らしい先生でした。

 今最も我々の近くで、親しくお付き合いさせていただいているのは、協会顧問の坂巻さん。元全国野球振興会(プロ野球OBクラブ)常務理事で、10年近く一緒に仕事をさせていただきました。最近では、頼住専務理事の神奈川県でティーボール講習会の講師を度々お引き受けくださっています。日本協会では、2013年の「第20回記念日本ティーボールセミナー」において、「地域の子どもにティーボールを指導して思うこと」というタイトルで、お話を頂きました。見事なご講演でした。

 法政大学を語りだすと尽きません。それ程、様々な分野でご活躍の方が多いです。その中で、ここでは、私の勝手な判断で、身近な方のみ紹介しました。本当は、山中正竹会長の下で、侍ジャパンを率いる、稲葉さんのことも書きたかったのですが、オリンピック前のこのタイミングでは書けません。どのような戦術で行かれるのか、投手は誰が中心か、初戦のドミニカ共和国は強いですよ。楽しみです。

 田中優子前法政大学総長について書くべきだったか?、私はやっぱり「野球バカ」。私とって法政大学と言えば野球。平安ー法政大学という野球の超エリートコースを歩んだ先輩や同級生、そして今ティーボールの普及に我々とスクラムを組んでくださっている坂巻さんのことを書いてしまいました。田中先生、ご無礼致しました。

 でも、田中先生の最終回での言葉、いいですね。「もっと書きたい、もっと挑戦したい」ですって。私も「野球バカ」です。「野球をもっと書きたい、もっと挑戦したい」です。