7月5日「青天を衝け」大ファンです 栄一フランスへ、それを見てハワイ留学を思い出す 

 NHKテレビ日曜日の8時からの「青天を衝け」。私はこのコロナ禍において最も好きな番組の一つです。皆さんはご覧になっていますか。渋沢栄一の生涯をドラマにしたもの。彼を簡単に紹介すると、彼は「日本資本主義の父」です。1840年生まれ。尊王攘夷の志士から、一橋慶喜の家臣に。幕臣となりヨーロッパへ、その後、静岡藩、民部省、大蔵省を経て、実業家として銀行、様々な企業、経済団体を立ち上げ、それ以外でも、教育、医療、福祉、外交とありとあらゆるところで、中心人物と活躍なされた、飛び切り偉大な人物です。詳しいことは、これからのNHKテレビをご覧ください。

 昨日は、徳川慶喜の異母弟・徳川明武の随員としてフランスへ行くところでおしまい。後は来週のお楽しみ。それ1867年のことです。その時代に異国フランスに行くなんて想像しただけでワクワクします。そこで何を学び、その知識を如何に日本の国に導入したのか。来週以降が待ちどおしくなります。そこで今日の「理事長からのメッセージ」は、それから100年後1969年、私のハワイの留学時代を思い出し、それを少し紹介します。

 渋沢栄一から比べると、めちゃくちゃスケールの小さい話です。渋沢のフランス行きから約100年後の1969年5月から私はハワイに留学しました。当時の飛行機で8時間半ほど、ハワイに行くときは追い風です。帰りは向かい風で10時間半ほどかかります。さて、その時の航空運賃は、確か片道20万円前後。1ドルが360円、大学卒業生の初任給が2万2千円ほど。如何に運賃が高いかが分かります。テレビでは「さあ!夢のハワイに行きましょう」と言っていました。ハワイへの留学生はほとんどいません。最初に行った学校では、クラスメイトの何人かは、ハワイに住むおじさん、おばさんを頼っての留学生。ですから彼らの住いはその親戚のお家。私はハワイ大学の学生が利用する最も安い宿舎の本願寺ドミトリー。そこでさえも私にとっては家賃が高いので、ベトナム戦争帰りのルームメイト日系4世ケン・マシタ君と、犬小屋みたいな一軒家のぼろ家の一階に住み、前にも書きましたが、私はベッドを買う金もなくフロアーの上に布団を一枚敷きそこでお休み。食事はと言うとご飯を一日3合炊き、きれいに半分はケン。残りの半分は私。おかずは、マウイ納豆、これが糸を引かない納豆。まずいです。でもその時は生活するため美味しかった。ベッド

 こんなことがありました。アラモアナショッピングセンターの中に「白木屋」があり、そこで一度「さんまの開き」を買いに行きました。行き帰りは、バス代がもったいないのでウォーキング。片道50分ぐらい、昼は暑いので夕方ゆっくり歩いて往復2時間。帰りはルンルン気分。明日はさんまが食べられる。こんな贅沢いいのかな。その気持ち。そして翌日になりました。「さんまの開き」を食べようか、いや待てよ!次の日にまで残しておこう。楽しみは後にとっておくもの。これが当時の私の考え。そして翌日もそのように考えて、一合半の白米とマウイ納豆で済ませました。さあ!今日こそは「さんまの開き」を食べるぞー!とルンルン気分で帰ったら、その「さんまの開き」腐っていました。

 でも、私、当時から食べ物に関しては根性があります。それを食べました。美味しかったです。忘れられません。お腹傷めません。若さがあり、進取の精神があり、ハングリー精神があり、根性があり、病院に行くお金がなければ、病気しません。

 学生にこんな話もしました。あのな、私が学生の頃、早稲田ランチが50円、それに納豆を特別に注文すると5円プラス。当時は55円でめちゃくちゃリッチ。パワフル!分かるか君たち!その私がハワイに留学すると、昼食のプレートランチが1ドル50セント、日本円で約500円。ええか?55円で散財してパワフル。それが500円のプレートランチが食べられると思うか・・・。そんな贅沢する「お金」どこにあるの?日本は、私は本当に貧しかったのです。

 さてそこで、私はどうしたか、夜の試合に週2,3回招待選手として参加。試合後は食事が出ます。日系野球リーグ・日系ソフトボールリーグですから、出るおかずはなんと全て日本食です。最高です。煮しめ、海苔巻き、照り焼き肉、ポテト、ハワイは当時から贅沢です。おかずと御飯が残ります。私はそれを狙っています。プレートランチにして、明日の朝食と昼食、2食ゲットできます。日曜日は必ず試合、その後食事、食後「ドギーバック」「犬の食事」として、弁当を頂きます。そこの食生活が私の2年半の留学生活、招待選手、学校の先生としての活動を支えました。食事は大切です。このプレートランチの無い時、試合のない日に、一人で自宅からアラモアナショッピングセンターの中にある「白木屋」に行ったのです。

 留学2年目の1970年、大阪万博がありました。大変な盛況であったと聞いています。100年前、渋沢栄一はその万博をフランスで見ました。私は、それが日本の大阪であったのに、お金がなく日本には帰れませんでした。日本人なのに日本の万博を見ていません。自宅は大阪のすぐ近くの京都なのに見ていません。渋沢と私、めちゃくちゃ差があります。これどうしようもないです。

 渋沢栄一は、日本にお金がない時、鎖国している時、フランスに行き、また周辺国を回わる。そして、帰国後はあのご活躍「日本資本主義の父」です。尊敬します。羨ましいです。お見事です。これからの「青天を衝け」も楽しみにしています。