8月8日 ハワイ島、ヒロ市、マサオ・コイケ先生、ダニエル・イノウエ国会議員、レス・ムラカミ監督、思い出は尽きません。

 昨晩、NHKテレビ19時30分から20時45分までは、「鶴瓶の家族に乾杯」でした。タイトルは、「海外SPハワイ島の旅、吉岡里帆&鶴瓶が日本と関係深いヒロの街へ、受け継がれる日本の心に感動!」。いつもだとこの時間帯は、20時からNHKBS1の「球辞苑」を観るのですが。「ハワイ」となると、まして「ヒロ市」となるとこれを観てしまいます。

 先ず最初に、出演者の全ての人が、「ハワイ島」を「ハワイとう」と発音されます。1969年から1971年まで、ハワイのオワフ島本願寺フォート学園で、ハワイの皆さん(アメリカ人)に日本語を教えた私としては、違和感を覚えました。即ち、ハワイの日系人の皆さんは、「ハワイ島」を「ハワイしま」と言います。「とう」ではなく「しま」なのです。

 ハワイ島での私の思い出は、沢山あります。最初は、1968年に、京都明徳商業ソフトボールチームのコーチとしてヒロ市での親善試合です。1ドル360円の時代。ドルの持ち出しは20ドルまで。そこでお世話になったのが、日系ハワイ野球並びにソフトボール協会会長のマサオ・コイケ先生をリーダーとする、日系野球・ソフトボール協会所属の野球関係者の方々でした。大変お世話になりました。

 マサオ・コイケ先生は、ハワイ大学マノア本校の卒業生ですが、もともとはハワイ島、ヒロ・ハイスクール(高校)の卒業生。ヒロ市は、古くから多くの日系移民が、サトウキビ畑で働いていました。今日でも、ヒロ市のダウンタウンに行けば、日本人の名前のお店が沢山あります。その風景が、昨日NHKで少しばかり放送されました。懐かしかったです。

 1969年から1971年迄の2年半は、私が留学していた時。勿論1ドル360円。生活は超苦しかったです。でも、大学の休みの時は、国内旅行ということで、ハワイ島には何度か訪問しました。日系人が多いからです。落ち着くのです。ハワイらしさが当時から色濃く残っていました。当時、オワフ島のアロハ空港から日帰りでハワイ島の火山観光ができるツアーもありました。このツアーに私の両親も1970年に参加し、スケールの大きな火山を観て感動してくれたのを今もって鮮明に記憶しています。昼ご飯は、火山近くの日本食店でした。

 ヒロ市には、花びら式のソフトボール場が4面あります。そこで、早稲田大学ソフトボールの男子チームが、1990年、1992年、1994年、1996年とハワイの島々の代表チーム並びにアメリカとカナダの強豪チームと対戦できるボブラップ大会に出場し、着実に成果を上げていきました。1998年からこの大会はワールドシリーズハワイ予選大会と名称を変えました。そこでも我々は、2000年、2002年、2004年、2006年と計8回、このヒロ市のソフトボール場で戦いました。この大会に出場して、現在、日本ティーボール協会で理事・評議員を務めてくれている人が20名を超えます。彼らは、アメリカの野球・ソフトボールを良く知っています。勿論ティーボールも。

 1985年、1986年は、私はハワイ大学マノアキャンパス(本校)で「HPER(健康・体育・レクリエーション教育)」を教える客員教授でした。課外活動では、野球部とソフトボール部の客員コーチも引き受け、数回このハワイ大学ヒロ校(分校)と対戦しました。マノア本校は「レインボー」(七色・ワイキキでは晴れ、マノアキャンパスは雨、そのためしばしば「虹」が出るため)このように呼称されているのです。一方ヒロ校は、「火山の島」ですので「ボルケイノ」「赤一色」です。

 男子部がこのハワイを飛び越えて、本土で開催される「ワールドシリーズ」に出場するようになってからは、女子部がハワイへ行くようになりました。最初の遠征は、2009年。対戦相手は、シャミナード大学、HPU(ハワイ・パシフィック・ユニバーシティ)、ブリンガム・ヤング・ハワイ校、それにハワイ大学ヒロ校でした。毎年いいチーム。それぞれの大学に良いコーチがおられます。現在は如何なものでしょうか。また近々対戦してみたいですね。

 今日8月8日の朝日新聞朝刊の一面トップは、何と「すばる」。ご存じのように、ハワイ島のマウナケア山頂に設置された「すばる望遠鏡」のことです。その見出しは、「すばる大改良 暗黒物質に挑む」「2000の天体一望 観測効率100倍」「宇宙どうやって始まった?解明に期待」。

 1985年、1986年ハワイ大学マノア本校客員教授時代、日本から花山の天文台研究員、国立大学の有能な天文学者が、私ども家族が住んでいた教員寮に来ました。そこで、彼らが口を揃えて言っていたのは、「日本にも立派な望遠鏡が欲しい」。「我々はイギリスの望遠鏡、アメリカの望遠鏡、ハワイ大学の望遠鏡をお借りして、天文学を研究しているのですよ」という愚痴ばかりでした。

 その数年後でしょうか。日本が素晴らしい望遠鏡「すばる」をマウナケアの山頂に設置したのでした。その結果、日本の天文学の分野では一気に研究が進んだと聞いています。早稲田大学男子ソフトボールチームが3月にハワイ遠征(ワールドシリーズハワイ予選)に出場した時に、私は無理を言って、大会中に選手(学生)全員を雪の残る山頂へ連れて行ったことがあります。そのときの感動をついこの間のように記憶しています。

 「すばる」の望遠鏡へ到着するまでに、ダニエル・イノウエ・ロードを通ったのも印象的でした。442部隊の英雄である彼と私は固い握手をしたことがあったからです。ご存じのように彼の右腕は、ヨーロッパ戦線で無くされていたのです。私の右腕と彼の左腕での固い握手。確か留学したその年、1969年のことでした。

 ハワイ州ヒロ市というと、この歳になっても、次から次へと思い出しますが、今日はこれくらいにします。そうそう、昨晩の番組で「朝ごはんは何を食べましたか」という質問を吉岡さんがしたところ、現地の子どもは「パンケーキ」と答えていました。実は、ヒロ市には、有名な「パンケーキ・ハウス」があるのです。コイケ・マサオ先生らと何回そこで朝食をともにしたことか、懐かしいです。

 最後に、今、ハワイの国際空港は、ホノルル国際空港とは言わないようですね。「ダニエル・K・イノウエ国際空港」だそうです。そういえば、1985年ハワイ大学マノア本校の野球部監督は、レス・ムラカミさん。彼と私は1971年アメリカのソフトボールオールスターで、私は帰国。彼は来日。彼が監督、私が5番でセカンドベースマン、3番手の投手。1985年は、ヒロ校と野球の試合をしたときは、監督と臨時コーチの間柄、そのレス・ムラカミ監督、今のハワイ大学野球場の名称は「レス・ムラカミ・スタジアム」。

 今日の「理事長からのメッセージ」は、ハワイ、ハワイ、ハワイ。そしてヒロ市での思い出ばかり。昨日のテレビ、本日の朝日新聞を観て、無性にハワイの「思い出」を書きたくなりました。

 次回からは、書くことを頭の中で整理してから、簡潔に、そして丁寧に書くことにします。なんせ、今日は20日ぶりの「理事長からのメッセージ」の執筆でしたから、気合が入りました。

 それでは、今日は、「アロハ!」「マハロ!」。これからは夕食「ププ」の時間です。