9月17日 2015年10月再び中国へ。中国塁球協会と日本ティーボール協会の「交流友好の調印式」に出席するため

 一昨日、2015年9月15日は、中国煙台大学の客員教授に就任した日と紹介しました。実はその年、日中の野球・ソフトボール・ティーボールの間で大きな動きがあったのです。それは、その年の8月10日、中国塁球協会から私に招待状が来ました。煙台大学に行くちょうど1ヵ月前のことでした。その内容を、中国語の「字」で、私が読めるところだけ紹介します。

 「激(この字でサンズイでなくシンニュウ)清函」 

 尊敬的吉村正主席: 

 近年来、中国軟式棒塁球項目(TEEBALL)在貴協会?助下発展?良好、随着中日軟式棒塁球項目交流日益頻繁、我協会特激清??2015年10月14日来?、与我協会領?商討中日軟式棒塁球交流与?州軟式棒塁球?展事宣 特致此函、望?来?交流??!  

 中国塁球協会 2015年8月10日

 皆さん読めますか。「?」は私が読めなかった中国の新しい略字です。でも何となくこの内容で分かりますよね。日本語で分かり易く書くと、「中国塁球協会は日本ティーボール協会と仲良くしましょう。そのために、吉村正主席よ、10月14日の『調印式』に中国に来てください。」という招待状です。

 この年は、私が70歳で、41年間務めた早稲田大学を定年退職する年。最後の年間授業、最終授業、記念講演、感謝の会。一方、ティーボールでは和歌山国体9月12日、13日。その足で自宅に帰らず、飛行機を乗り継いで煙台大学へ、帰国したらすぐゼミ合宿で神戸と名古屋に出張。それは私の通信制のゼミにビュッセル神戸の10番森岡君がいたからです。彼が活躍する地でゼミ合宿を行おうというのがゼミ生全員の考えだったのです。それを尊重しました。その後も、全国レク、通常授業と忙しい日々を送り、10月13日1ヵ月ぶりで再び中国へ出発したでした。行先は煙台市でなく北京市。

 14日北京市のホテルで中国塁球協会の楊氏や鄭氏に会い、下記の書類にお互いが署名捺印し合意しました。

            「中国塁球協会埜与日本TEEBALL協会」

                交流合作意向?

 甲方: 中国塁球協会

 乙方: 日本TEEBALL協会

 協定有効期:自??之日起至2020年12月31日

 ここで詳しく説明文があります。それを極めて簡単に紹介します。

 (前略)一、双方共同努力(略)  ニ、双方加強(略) 三、双方合意(略) 四、双方???????事和交流活? 五、双方在国?TEEBALL事??相互信任、相互支持。

 そして、中国代表人:陽旭博士の直筆のサイン。日本の代表人:吉村正の直筆にサイン。

 以上です。

 この交流合意書をお互いがサインするまでの45年間、日中の野球・ソフトボール関係者の間では、楽しいこと、勉強すること、講習会の開催、親善大会、全国大会への招待等様々ありました。

 私と中国塁球協会(ナショナルチーム)との、最初の出会いは1971年に遡ります。この年は最初がピンポン外交、次が野球・ソフトボール外交でした。中国ソフトボールナショナルチームが初来日し、最初の試合会場は早稲田大学安部球場の使用を希望。早稲田大学はそれを歓迎しました。それは早稲田大学が100年以上前の中国から多くの留学生を受け入れていたからでした。その時私は31歳で体育局の助手。私はグラウンド(早稲田大学野球場・安部球場・現在の国際会議場)整備をしながらナショナルチームをお迎えし、それなりのお世話をさせて頂きました。ナショナルチームの対戦相手は東京都高校女子選抜ソフトボールチーム。その様子は当時のソフトボールマガジンに大きく掲載されました。また、テレビの解説は、私の大学の先輩で神田女子高校のソフトボール部部長の御喜正先生でした。

 それからの45年間は、当時の中国ナショナルチームのエース李念敏(岐阜市在住)さん、その時の監督、中国塁球協会の重鎮李敏感先生などと旧交を温めたり、何よりも日本協会理事の陳兆麗先生の大いなる働きと貢献もあり、私は中国政府からは2009年中国国家委員を3年間、2012年からも3年間、計6年間継続して就任させて頂きました。その延長線上とでも言いましょうか、この野球・ソフトボールの原点ともいうべき「日本式ティーボールの交流・友好協定の話」が中国側から出たのでした。

 日本ティーボール協会は中国塁球協会とはいつも良好な関係を保っています。このコロナ禍でこの1・2年交流ができていませんが、コロナが収束した暁には、以前と同様、国際親善・国際交流を続けて行きたいと思っています。皆さん宜しくお願い致します

 今日は、一昨日の煙台大学の件で、2015年当時の手帳を見ていたら、同年10月14日北京での「交流・友好の調印式」を思い出しました。